今週のみことば
2月18日
「イエスは彼らに言われた
『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう
しかし、今あなたがたが”見える”と言い張るところに
あなたがたの罪がある』」
(ヨハネによる福音書9章41節)
先週のみことばの続きです
あのシロアムの池で目を洗って癒された盲人は
パリサイ人たちと口論になって追い出され
そこでイエスと会いました
そして彼は、今目の前にいる方こそ自分の目を癒してくれた方と知り
イエスを信じ、拝していくのでした
”拝する”とは、神になすこと
彼はイエスを神と信じたのです
するとイエスは言われました
『わたしがこの世に来たのは、さばくためである
すなわち、見えない人たちが見えるようになり
見える人たちが見えないようになるためである』(39節)
一方、奇跡を目の当たりにしても信じないパリサイ人は
この言葉を聞いて更に問いかけます
『それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか』(40節)
パリサイ人は、律法(おきて)に熱心で
常に自分たちは人の上に立っており
『わたしは知っている』との強い自負心を持っています
そのため
現実を見てもそれを受け入れることができないので
盲人の話から何かを得ようともしませんでした
彼らは自分が常に正しいと信じていますから
自分の理想とする神とイエスの姿が異なっているため
どうしてもイエスを神と認めたくないのです
この真実が見えない盲目の状態であることを
彼ら自身は知りません
もし彼らがそれを知っているならば
そのことは罪ではないのですが
彼らは自分が見えている(知っている)と思い込んでいるところに
大きな罪があるのです
常に人を見下す信仰スタイルをとるパリサイ人の姿は
ルカによる福音書18章にも記されています
ここでは
パリサイ人が自分の表向き立派な行いを誇る一方で
取税人は自らを罪人として神の前に許しを乞いますが
神が義とされたのは取税人の方でした
『おおよそ、自分を高くする者は低くされ
自分を低くする者は高くされるであろう』(14節)
現在の教会においても
信仰生活が長くなると、その信仰歴を誇りとし
自らを高くするような人々が見受けられます
彼らは長く信仰しているから何でも知っているつもりになっていますが
何もわからないからこそ自分を誇るのです
その何もわからない(見えない)自分に気づかず
自分は見えているのだと言い張る
その姿は決して神に喜ばれるものではありません
なぜなら
自分は知っていると思えば
何を見ても、何を聞いても
そこから教えられることがないからです
パリサイ人が盲人の話を聞いても何も教えられなかったように
何年教会に集っていようが
教えられる心がなければ
真理はいつまでもつかめないのです
「だから、立っていると思う者は
倒れないように気をつけるがよい」
(コリント人への第一の手紙10章12節)
自分を誇る人は、自らの力で立っていると勘違いしています
もしそう思っているならば
倒れないように自分で気をつけなくてはなりません
「謙遜と主を恐れることとの報いは
富と誉と命とである
よこしまな者の道にはいばらとわながあり
たましいを守る者は遠くこれを離れる」
(箴言22章4-5節)
「自分の目に自らを知恵ある者とする人を、あなたは見るか
彼よりもかえって愚かな人に望みがある」
(箴言26章12節)
「互いに思うことをひとつにし
高ぶった思いをいだかず
かえって低い者たちと交わるがよい
自分が知者だと思いあがってはならない」
(ローマ人への手紙12章16節)
多くの人は
何か大変なことをすれば救われるのではないかと勘違いしています
熱烈に信仰しているから救われるのではなく
派手な目立つ信仰スタイルが本当の信仰ではないことを知り
信仰生活に修行を持ち込んだり
律法に熱心になったりするのではなく
ただ神を信じるやわらかい心をもって
真実が見える人になっていくことができますように
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった
なんの不自由もないと言っているが
実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者
目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」
(ヨハネの黙示録3章17節)
人はみな神の前に愚かな存在ですが
その人間に、ある種の才能や力や幸いが神から与えられること
そして、真の救いも神によることを知り
己を低くして、常に神に対する恐れと感謝を忘れず
一歩一歩、毎日を大切に歩んでいきましょう
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