今週のみことば
3月3日
「イエスは彼女に言われた
『もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか』」
(ヨハネによる福音書11章40節)
マルタとマリアの兄弟ラザロが病気であることを知らされながらも
イエスは、なおその場で2日滞在後
やっと彼らの元に出かけますが
その時にはすでにラザロは死んで墓に葬られていました
ラザロの病気を知らされた時から
『この病気は死ぬほどのものではない
それは神の栄光のため
また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである』(4節)
と言われているように
イエスは弟子たちにも、また姉妹たちにも
『わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く』
『あなたの兄弟はよみがえるであろう』
『わたしはよみがえりであり命であるわたしを信じる者はたとい死んでも生きる』
と、ラザロは死なないのだと繰り返し語っていましたが
その内容は到底信じがたく
なかなか受け入れることができませんでした
だからこそ、墓石を取り除くよう指示された時も
マルタは躊躇したのですが
『もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか』
との言葉を聞いて、人々は石を取りのけたのです
人生にはショックを受けるようなことも多々あり
なぜ?と疑問に思うこともあるでしょう
その時なにを信じるのか
そして、正しい言葉を信じていくときに
そこには希望があり命があるのですが
人間には多くの考えがあって
その希望を自ら遠ざけてしまうこともあるのです
ラザロのことでイエスがずっと語り続けたのは
「信じること」でした
「さて、信仰とは、望んでいることがらを確信し
まだ見ていない事実を確認することである」
(ヘブル人への手紙11章)
ところが、人の心にある思いがそれを邪魔します
人の思いはパン種となって心の中で膨らみ
それは不信感につながっていくのです
「あなたがたが誇っているのはよろしくない
あなたがたは少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのか
新しい粉のかたまりになるために
古いパン種を取り除きなさい」
(コリント人への第一の手紙5章6‐7節)
イエスに呼ばれたラザロは墓から出てきました
彼は葬られたままの状態で、布を巻かれていましたから
それも全部ほどくようにと命じられます
こうして一度死んだラザロは神によってよみがえり
死に勝利し
(死人のための)墓も石も布も彼のためには必要なくなりました
神によって生まれ変わり
新たにされた者には
過去の自分が身に着けていた”世のもの”
つまり己の面子や誇り、見栄、は必要なくなり
それらを取り除いて
新たに神の価値観を所有し
そうすることで必要なものもちゃんと備えられて
神と共に歩む者とされるのです
反対に
神の言葉を信ぜず、聞き入れず、従わず
自分の心にのみ忠実である場合には
その人は神の前には死んだ人
その中でも神を否定する人は、最も哀れむべき人です
人生にはさまざまな問題があり
ひとつの問題が解決するには
長い時間がかかるかもしれません
また、自分はもう安泰だと傲慢になっていれば
それがいつひっくり返るかもしれません
社会的に、常識的に考えると
もうだめとか、無駄とか思うようなことでも
神にあって希望をもって進む
それが信仰者の生き方であり
神の前に生きた人の歩みです
神がなさることにはすべて意味がある
だからこそ、目の前にあることを受け入れて
置かれたところで精一杯できることをやっていくのです
「わたしたちはこの望みによって救われているのである
しかし、目に見える望みは望みではない
なぜなら、現に見ていることを、どうして、なお望む人があろうか
もし、わたしたちが見ないことを望むなら
わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである」
(ローマ人への手紙8章24‐25節)
人間の考えることは決して完全ではなく
これこそ正解と信じても
考えたとおりにはならないものです
人間は、自分が持っているものしか出てきませんが
そこに神の知恵があれば
その知恵が人を助けます
また、神はわたしたちに心のゆとりも与えてくださいます
人が自分で完全を目論み
キチキチやろうとすればするほど物事はスムースにいかないもの
ちょうどいいゆとりもタイミングも神より与えられつつ
常に神の前におのれを低くして
その道を希望をもって進んでいきましょう
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