今週のみことば


3月24日


「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である
わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき
実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために
手入れしてこれをきれいになさるのである
あなたがたはわたしが語った言葉によって既にきよくされている
わたしにつながっていなさい
そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう
枝がぶどうの木につながっていなければ
自分だけでは実を結ぶことができないように
あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である
もし人がわたしにつながっており
またわたしがその人とつながっておれば
その人は実を豊かに結ぶようになる
わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」
(ヨハネによる福音書15章1-5節)


ガラテヤ人への手紙5章22-23節に
『御霊の結ぶ実は愛であり
 喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です』
と記されているように
イエスを神と信じ、その救いを受けて”ぶどうの木”の枝となった者は
そこで上記の”実”を実らせるために信仰生活を送ります

この”実”とは
世の中で言うところの成功者となることを示すのではなく
『キリスト・イエスの心を心とせよ』(ピリピ2章5節)とあるように
神の心に近づいていくことを表していますが
人間はどんな人でも完全ではなく
そのために救いが必要になり
また救われてもなおその歩み方(生き方や考え方)に間違いがあれば
それを教えられ、悔い改めながら進んでいかなくてはならないわけです

そして、人の生き方の模範を
イエスさまご自身が残してくださいましたから
聖書のみことばを通して、わたしたちはそれを学び
その足跡に従おうという気持ちを持って歩むことが大切です

「『彼におる』と言う者は、彼が歩かれたように
その人自身も歩くべきである
(ヨハネの第一の手紙2章6節)


また、神を恐れ、その道に真摯に歩もうとする人は
心の状態が整えられるだけではなく
必要なものが与えられるのはもちろんのこと
思いがけない喜びもそこに用意されているとは
なんと感謝なことでしょうか

「謙遜と主を恐れることとの報いは
富と誉と命とである」
(箴言22章4節)


では反対に、”実を結ばない枝”とはどういうものであるかというと
神の心を知ろうとしない人
神を知っていても離れてしまう人
自分を誇り、自分の誉れを愛する人
というような人々であり
自分がいかなる者であるかを知らず
傲慢になって
神よりの恵みから遠ざかっていく人です

せっかく救いにあずかり
たくさんの恵みを得て生きてきたのに
いつしか神への感謝も忘れ
自分の力で生きてきたように勘違いしてしまう
人間とは実に残念な生き物ですが
いくら自分を誇ってみたところで
その力を、チャンスを
そして何より命を与えてくださったのは一体誰なのでしょう

救いにあずかり、その中から汚れた霊は追い出されても
せっかくきれいになったはずの心にすきがあれば
そこに再び汚れた霊が入り込んでくると
みことばには記されています
しかも、その霊は他に7つも悪霊を連れてくるというのです

「汚れた霊が人から出ると
休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない
そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると
その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった
そこでまた出て行って
自分以上に悪い七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む
そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである
よこしまな今の時代も、このようになるであろう」
(マタイによる福音書12章43-45節)


信仰の目的が
世の中でいう勝ち組になるためであるならば
たとえその人の願いはかなえられても
その心が純粋に神に向くとは限りません
成功と共に傲慢になり
『神の心を心とする』という信仰の本来の目的から離れて
いよいよ自分の誉れや欲のために進んでいくのは残念なことです
願いがかなったから、成功したからもうこれで安心というのではなく
ますます神の前に低くなって
決して感謝を忘れず
神に喜ばれるところの
豊かな実を実らせる人となっていくことができますように



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