今週のみことば


6月9日


「さて、ペテロとヨハネとが
午後三時の祈りのときに宮に上ろうとしていると
生まれながら足のきかない男が、かかえられてきた
この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため
毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに置かれていた者である
彼は、ペテロとヨハネとが、宮に入っていこうとしているのを見て、施しをこうた
ペテロとヨハネとは彼をじっと見て『わたしたちを見なさい』と言った
彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが言った
『金銀はわたしにはない
しかし、わたしにあるものをあげよう
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』
こう言って彼の右の手を取って起こしてやると
足と、くるぶしとが、たちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した
そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら
彼らと共に宮にはいって行った」
(使徒行伝3章1-8節)


人からお金をもらうことで日々の生活を送っているこの人にとって
『金銀はわたしにはない』というペテロの言葉は
実にがっかりするものだったと思われます
しかし、彼はこの後、思いもよらない奇跡を体験しました
元はといえば足がきかないために彼は働くことができなかったわけで
彼が人から施しを受ける生活を強いられる原因が
こうして根本から解決されたのです

「そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに
あなたがたのいま見て知っているこの人を、強くしたのであり
イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同の前で
このとおり完全にいやしたのである」

(使徒行伝3章16節)

真の神である”イエスの名”を信じる信仰こそ
その人に必要な”完全な癒し”を与えます
それは、単なる目先の望みがかなうわけではなく
その人が本当に幸いになるための根本解決の道ですが
人はどうしても目先の望みがかなうことを重要視するため
信仰の目的もまた、”金銀=目先の望み”がすべてになりがちです

各々にとって”金銀”とは何でしょうか
文字通り、お金かもしれませんし
あるいは名誉、地位、賞賛といった
そこにはさまざまな望みがあると思います
しかし、そういった望みが信仰のすべてになってしまうと
神がその人に求めているものが何なのかがわからなくなってしまいます

「それは、彼らの目を開き
彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ
また、彼らが罪のゆるしを得
わたしを信じる信仰によって
聖別された人々に加わるためである」
(使徒行伝26章18節)


人はみな、何らかの病んだ部分を持っていますが
イエスの名を信じる信仰は
その人の持っている間違った考えや価値観を根本から癒し
あちこちふらふらすることなく
しっかりと信仰に根ざした正しい生き方でもって
信仰者の人生がいかに幸いであるかを
まわりの人々に証明していくものです

イエスの名による奇跡を行ったペテロやヨハネは
無学で、人から賞賛されるような者ではありませんでしたが
神はそういう人を選んで用いました
こうすることで
すべてのことは神により
すべての誉は神に帰するものであることを知らせたわけです

ですから
使徒たちがいかに素晴らしい奇跡のわざを行ったとしても
それを成しているのは神であり
賞賛されるべきは人ではなく神です
ところが
今日の教会においても
ある人々は神ご自身よりも、目に見える”偉い先生”を信仰し
神に喜ばれる道からそれていってしまっているかもしれません
わたしたちはイエスの名を人々に伝える者であって
決して人間の名を崇める者であってはならないのです

「このイエスこそは
『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである
この人による以外に救いはない
わたしたちを救いうる名は
これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」
(使徒行伝4章11-12節)


最初のみことばに出てきた”金銀”のように
これさえあれば幸せであるかのように思える目先の望みは
それを持つことで一時的に安心感を得ることはできても
それが人生の問題の根本解決になるわけではありません

また、お金や名誉といったもの以外に
偉い人を頼り、その人に希望をおいていくのも世の人の常です
そういった”世のもの”だけを求めていく信仰では
神を見出す(実感する)ことは難しい
ですから
完全な癒しを与える方は誰なのかを知り
本当に神を見上げる信仰が育つように務めていきたいものです

神を見上げる心は
目先の欲よりももっと大切なことに気づかせてくれます
その心が育つために
いよいよ神に近づく道を求めていきましょう



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