今週のみことば


8月18日


「そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを夜の間にベレヤへ送り出した
ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った
ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって
心から教えを受け入れ、果たしてその通りかどうかを知ろうとして
日々聖書を調べていた
そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった
また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった」
(使徒行伝17章10-12節)


パウロとシラスは、テサロニケにおいて
ユダヤ人たちに対して
聖書に基づいて”イエスがキリストである”ことを論証していました
すると、それを聞いた多数のギリシヤ人が信じたため
ユダヤ人たちはそれをねたんで迫害しますが
パウロたちはベレヤでまた伝道活動を始めます
ベレヤの人々は素直で、心から教えを受け入れたばかりか
彼らは自ら聖書を調べて、納得したのでした

ベレヤの人々と同じく
わたしたちもまた聖書を調べ、信仰生活の基としています
なぜ人が語る言葉をそのまま受け入れるにとどまらず
いちいち聖書を調べるのでしょうか

聖書は人の心で変えてはならないものだからです
文章に書いてあるものは
読む人の心によって、その意味のとらえかたも変わります
だからこそ人の言うことをうのみにしていたのでは
聖書の意味が曲げられているかもしれない
しかし、自分で聖書を調べれば
何が真実なのかがわかります

わたしたちの基準はあくまでも聖書
聖書は不動のものですが
人の心は動きます
そして、動くものを基準とした人生は常に不安定です

「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを
まず第一に知るべきである」
(ペテロの第二の手紙1章20節)

「その手紙の中には、ところどころわかりにくい箇所もあって
無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように
無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」
(ペテロの第二の手紙3章16節)

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって
人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」
(テモテへの第二の手紙3章16節)


聖書の言葉を無理に解釈してしまうのは
人の考えや都合に当てはめようとするからであり
そのまま素直に読めば何の問題もありません
もし、わからないところがあるなら
無理にわかろうとせず
いずれ教えられるまでそのままお任せしておくことです

神の預言がどのような形で実現に至るのか
誰もわかる人はいないのですから
それを研究することよりも
書いてあることそのままを受け入れ
日々の生活に活かしていくことが大切です

創世記3章において
罪を犯したアダムとエバは
エデンの園の中で神の顔を避けて隠れようとしていました

神の言葉に反した行動をとったことで
自分が本来いるべき場所から必死で逃げようとあがくのですが
これが信仰に立てなくなった(神に従えなくなった)人の姿でもあります

信仰者が本来いるべき場所は神の元です
それがいつの間にか世の価値観の方に心が傾き
聖書の言葉に反して
自分の考えを絶対と信じ
自分の利益のみを行動の基準にしているかもしれません

もし自分の考えが絶対だと思うとすれば
それはすなわち聖書が間違っているということになってしまいます
昔の人たちも
心ある人は必ず聖書を調べて行動の基準としました

「このことについては言いたいことがたくさんあるが
あなたがたの耳が鈍くなっているので
それを説き明かすことは難しい」
(ヘブル人への手紙5章11節)


その心が、耳が、おおわれた状態で聖書を聞いても
的の外れた聞き方になってしまいます
一体自分が何者なのかを知ろうとし
神の言葉に真摯に耳を傾けていくことができるように
心して祈っていきたいものです



<目次