今週のみことば


9月30日


「わたしたちはみな地に倒れましたが
その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました
『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか
とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』
そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると
主は言われた
『わたしは、あなたが迫害しているイエスである
さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい
わたしがあなたに現れたのは
あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし
これを伝える務めに、あなたを任じるためである
わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し
あらためてあなたを彼らにつかわすが
それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ
悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ
また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって
聖別された人々に加わるためである』」
(使徒行伝26章14-18節)



アグリッパ王の前で弁明の機会与えられたパウロは
以前と同様に
自分がユダヤ人であり、しかも最も律法に厳格なパリサイ人で
イエスの名に逆らい、イエスを信じる者たちを激しく迫害していたこと
それが、ある日イエスに捕えられ、悔い改め
今は、イエスのよみがえりと救いを伝える立場にあることを
熱心に訴えていました

9-11節においては
イエスの名に逆らって迫害すべきと信じていた頃のことを語り
自分がどんなに間違ったひどい人間であったかを告白していますが
そんなパウロが一瞬にして悔い改め、全く反対の立場になったのは
彼がイエスの言葉に従って
”起きあがり、自分の足で立った”からです

”とげのあるむちをければ、傷を負うだけである”
はじめて「くびき」をつけられた牛が暴れるのを防ぐために
当時は、トゲのあるムチを使っていたそうです
そのトゲに当たって痛い目にあうことで牛は学習していくのですが
パウロもまた
いつまでもイエスに反抗していても
結局自分が痛い目にあうだけだと教えられたのでした

わたしたちも
神から与えられた「くびき」を嫌い
本来進むべき方向に逆らおうと反抗してみても
その先の結果は決して良いものにはなりません
いつまでも
世の中の価値観や、しきたりや風習が「くびき」となり
神ではなく、世のものに仕えている状況では
幸いな方向へと歩み出すことができないのです

自らの正しい行いで自分を救うという教えを離れ
イエスのよみがえりと、イエスの名による救いを信じる方向へ心を転じるパウロ
そのためには
自らが起きあがり、自分の足で立つのだという気概が必要でした

「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを
キリストのゆえに損と思うようになった
わたしは、更に進んで、わたしの主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに
いっさいのものを損と思っている
キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが
それらのものをふん土のように思っている
それは、わたしがキリストを得るためであり
律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義
すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて
キリストの内に自分を見いだすようになるためである」
(ピリピ人への手紙3章7-9節)


”起きあがる”とは
正しい事を教えられたなら、その場ですぐに方向転換しようとすることです
意固地にならず、自分のプライドに執着せず
間違っていた過去を潔く認めるところから
神の国を受け継ぐ者の新たな歩みが始まります

「見よ、ひとつの手があって、わたしに触れたので
わたしは震えながらひざまづき、手をつくと、彼はわたしに言った
『大いに愛せられる人ダニエルよ
わたしがあなたに告げる言葉に心を留め、立ちあがりなさい
わたしは今あなたのもとにつかわされたのです』
彼がこの言葉をわたしに告げているとき、わたしは震えながら立ちあがった」
(ダニエル書10章10-11節)


わたしは常に正しいと思っていれば教えられることはなく
苦手意識を持ってそのままじっとしていたのでは
いつまでも変わることはできません

まずはイエスの名による救いを受けることから人生の転換は始まり
自分が持ち続けている間違った価値観や考え方を改めることで
その道は確実に”闇から光へ”と進んでいくわけですが
人はしばしば迷うものですから
神の言葉による導きが常に必要であり
そのために教会が置かれ、礼拝があるのです

天地創造の唯一の神であるイエスの名を信じる信仰は
人生の安心の土台となり
各々に良きチャンスをもたらします
また、クリスチャンには
キリストに似る者としての良心ある生活をなし
その幸いな生き方でもって神の証人となる使命があることを覚えて
各々自分に与えらた道を
みことばに従って進んでいきましょう



<目次