今週のみことば


10月12日


「最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい
さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが
それは、わたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる
あの犬どもに注意しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい
肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい
神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇りとし
肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である
もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない
もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら
わたしはもっと頼みとしている
わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者
ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人
律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者
律法の義については落ち度のない者である
しかし、わたしにとって益であったこれらのものを
キリストのゆえに損と思うようになった
わたしは、更に進んで
わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに
いっさいのものを損と思っている
キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが
それらのものを、ふん土のように思っている
それは、わたしがキリストを得るためであり
律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義
すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて
キリストのうちに自分を見いだすようになるためである
すなわち、キリストとその復活の力とを知り
その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり
なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである」
(ピリピ人へ手の手紙3章1-11節)

ピリピの教会の信徒に向けて
パウロは重要なポイントを繰り返し書き連ねています
それは
「犬」=ユダヤ教の人々や様々な野心を持った人
「悪い働き人」=自分に都合良く神の名を使って働く邪悪な人
更には、切り傷にすぎない「割礼」を誇りとしている人々に注意しなさいというものでした

このような人々は
真の神(イエス)を信じておらず
律法に熱心な自分自身を誇りとして生きていますが
肉を傷つけるだけの割礼を受けた人は
肉を頼み、肉を誇りとしているにすぎず
一方、肉ではなく、神に頼り、神を誇りとするわたしたちは
「真の割礼」を受けた者なのです

かつてのパウロは
肉を傷つけるだけの割礼を受けた人であり
肉を頼み、肉を誇りとして生きていました
実際に彼は、その生れや血筋や律法を守ること等に関して
誰にもまして誇ることができる身分でしたが
イエスに捕えられ、洗礼と聖霊のバプテスマにより救われることによって
それまで彼にとって非常に有益だと思っていたものは
すべてばかばかしい無益なものとなったのです

なぜなら
キリストによる救いを受けて、本当の神を知れば知るほど
人間が誇りとする家柄や地位や財産や名誉といった「肉」に属するものが
神の圧倒的な素晴らしさに比べて何ともつまらないものであるか
それがよくわかったからです

今日のわたしたちの周りにも
家柄や地位や財産や名誉といった「肉」を誇り、それらを追い求める人が多くいます
そして、わたしたちも救われるまでは同じであったかもしれませんし
今もなおそのことに捕らわれているかもしれません
しかし、洗礼と聖霊とによる救いを受けた今
そのような肉を誇る人々と自分を比べたりしないよう注意しなくてはなりません
そうでなければ、いつまでもみじめな自分から解放されないからです

洗礼のバプテスマによって一度この世に死んだ者は
クリスチャンとして、キリストと共に新たに生きていきます
キリストの復活の力がわたしたちの力となり
どんな苦難の道にあっても生きていけるように支えて下さるのです

「次の言葉は確実である
『もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう
もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう
もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう
たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である
彼は自分を偽ることができないのである」
(テモテへの第二の手紙2章11-13節)


挫折や苦しみを経験したとしても
神にあれば必ずそれらは人生に生きてきます
世の中に誇るような「肉」は何もなくても
神と共に生きていれば大丈夫なのだという信仰こそが重要なのであり
その信仰を持つことが
この不安な世の中で平安に生きる秘訣なのです

では、世の中に誇れるようなものを持ってはいけないのかといえばそうではありません
家柄や地位や財産や名誉といった「肉」に属するものを与えられている人は
それらがあるから大丈夫だと慢心してはならないということ
更には、それらを追い求めて信仰から離れてはならないということです

人間は、自分にはこれがあるから大丈夫と安心した時
その近くに死角になる部分があって
思わぬ落とし穴にハマってしまいがちですから注意が必要です
また、クリスチャンでありながら
自分は信仰歴何年といった自分の誇りを持ちこみ
優越感を求めるような信仰スタイルにも注意しなくてはなりません

「しかし今や、神の義が、律法とは別に
しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって
すべて信じる人に与えられるものである
そこにはなんらの差別もない
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており
彼らは、価なしに、神の恵みにより
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
(ローマ人への手紙3章21-24節)


これまでも何度も語られてきたように
わたしたちクリスチャンは、律法の行いではなく
イエス・キリストを信じて洗礼と聖霊のバプテスマを受けることで救われます
これは信じる人には誰でも差別なく与えられる神の恵みです
わたしたちは何か自分が頑張ったからその代償で救われるのではなく
神の一方的な恵みによって救われるという根本を忘れてはなりません
そして
キリストを知り、聖霊を内に持つことによって
キリストにある良き品性に至るように
神から与えられたそれぞれの人生を歩みつつ
自分の弱さと向き合い、間違いを正し
どんな時にも決して神を忘れることなく
希望を持って進んでいきたいものです

愚かな人間が大きく見られたいと思うところから
さまざまな問題は起きてきます
また、自分の思い通りにならないことにいら立つこともあるでしょう
それでも、神が常に近くにいて見守って下さることを信じ
神に栄光を帰すること、すなわち感謝を忘れないように
各々の信仰の原点をふりかえり
この救いの有難さをしっかり心に留めて
新しい週へと踏み出していきましょう



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