今週のみことば
1月5日
〜2013年の聖言〜 されど神の据ゑ給へる堅き基は立てり (テモテ後書2章19節) この基は即ちイエス・キリストなり (コリント前書3章11節) |
今年当教会に与えられた年頭のみことばは上記の通りです
(口語訳では以下のとおり)
「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて」
「そして、この土台はイエス・キリストである」
基(もとい)は土台のことであり
土台がイエス・キリストであるというのは
目に見えるお金や権力者を頼るのではなく
神であるイエスを頼りとし
イエスに対する信仰によって希望を得ていく生き方を示しています
”信仰の父”と呼ばれたアブラハムは
律法によらず、信仰によって神から義(正しい者)と認められました
それは彼が
望みがないような状況にあってもなお神を信じて希望を抱いていたからです
これによって
どんな時代にあっても、信仰が何より重要であったことが分かります
「このように、アブラハムは
『神を信じた。それによって、彼は義と認められた』のである」
(ガラテヤ人への手紙3章6節)
ここでアブラハムの信仰についてガラテヤ人に力説しているパウロ自身も
かつての律法派から、イエスの救いを信じる信仰に変わったのは
ただイエスの言葉を信じたためであり
彼はそれを正しいと信じたからこそ潔く変わることができたのです
そして
現在、神の言葉(聖書)を読むわたしたちは
イエスによる救いを信じて受け入れ
更には、救われた者がどういう価値観でもって生きていくのかを教えられ
ここからどのように自分の人生の土台を
「世」から「神」へと移していくのか
その信仰が問われることになります
救われて、イエスを土台として生きる者は
いつまでも滅びゆくものに惑わされていてはなりません
古い風習や人の言い伝え、迷信等に振り回されたり
すべてがお金で解決できるように考えたり
権力者の知恵や力に頼ろうとしたり
あるいは常に自分の名誉を追い求めるなど
「土台」とするものを間違えると
人生は決して幸いなものとならないのです
ルカによる福音書15章の『放蕩息子』は
「世」を土台とした生き方をしたために行き詰りました
父をないがしろにして、財産を持って出て行った息子ですが
やがて本当に大切なものが何なのかに気づきます
父の元には自分に必要なものが何でもあったのに
彼はそれに気づいていませんでした
父がどういう存在で
自分が何者なのか
そこに気づいたからこそ自分を低くして父の元に帰ることにしたのです
父はイエスの雛型
そして放蕩息子はわたしたち
人間は自分に力がない事を知る時、神の偉大さがわかり
本当の信仰がわかるようになります
信仰は目には見えませんが
その心はいつも神に見られています
そして神に対する信頼に基づき
信仰に立って困難を乗り越えた経験は
その後の人生に必ず役立つことになるのです
人間は大人であっても成長し続け
その過程において様々な傷を負うこともあるでしょう
しかし
信仰をもって進む者は
それらがすべて無駄にはなりません
「油断することなく、あなたの心を守れ
命の泉は、これから流れ出るからである」
(箴言4章23節)
ひねくれた思いを遠ざけ
神に向かって目を正しくまっすぐ向けること
どんな時も
土台を忘れず
土台から離れず
神よりの知恵をよりどころとして
その土台の上に
各々にふさわしい建築がなされる一年となりますように
新しい年も希望を持って祈って進んで行きましょう
<目次