今週のみことば
11月30日
「わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため
また、直接にはまだ会ったことのない人々のために
どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい
それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ
豊かな理解力を十分に与えられ
神の奥義なるキリストを知るに至るためである
キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている
わたしがこう言うのは、あなたがたが
だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである」
(コロサイ人へ手の手紙2章1-4節)
人々にキリストの福音を伝えているパウロが
まだ会ったこともない人々のためにも懸命に伝えようとしている事は
”神の奥義なるキリストを知る”
つまり、イエス・キリストご自身は神そのものであり
また具体的にどういう神であるのかということです
そしてなぜキリストの事を知らなければならないかと言えば
キリストの中には「すべての知恵と知識の宝」が隠されているので
すべての人が救われてこの宝にあずかることにより
人を惑わす世の中の教えや習慣から離れて
キリストの知恵を活かした生き方
キリストを信頼して生きる正しい生き方に変わってほしいからなのです
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから
彼にあってあるきなさい
また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように
信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい
あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で
人のとりこにされないように、気をつけなさい
それはキリストに従わず
世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基づくものにすぎない」
(コロサイ人へ手の手紙2章6-8節)
イエスの名によるバプテスマを受けたクリスチャンは
ローマ人への手紙6章に記されているように
「イエスの死にあずかるバプテスマ」を受けた者であり
この罪の体が滅び、罪に対して死んだ後
今度は新たにイエスの復活にあずかり、新しい命に生きる者とされました
だからこそ
今まで教えられていた世の中の言い伝えや空しい哲学から離れて
聖書の教える教えに従った生き方に転換していくように
そのためにもキリストがどのような方であるかを
聖書によって正しく知っていかなくてはならないのです
しかし、同じ聖書を用いながら多くの違った神学が生れ
誰もが自分が信じる説を正しいと思い
各々勝手な方向へと離れているのがキリスト教界の現状です
それはみなキリスト(聖書)に聞かず、人の言葉に聞いて
神の栄光よりも人の栄光が主になっているからでしょう
これは信仰ではなく「人のとりこ」にされた状態であって
キリストにあってキリストに根ざした歩みをするクリスチャンの
本来あるべき姿からは離れたものです
「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が
かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって
それに満たされているのである
彼はすべての支配と権威とのかしらであり
あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて
肉のからだを脱ぎ捨てたのである」
(コロサイ人へ手の手紙2章9-11節)
このように、せっかくキリストの割礼=洗礼と聖霊のバプテスマを受け
この罪ある肉の体を脱ぎ捨てたというのに
人の心はなお弱く、それまで教えられた習慣から離れることも難しく
いつまでも人の作った規定や教えにしばられたままなのでした
「もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら
なぜ、なおこの世に生きているもののように
『さわるな、味わうな、触れるな』などという規定や教えにしばられているのか
これらは皆、使えば尽きてしまうもの
人間の規定や教えによっているものである
これらのことは、ひとりよがりの礼拝と、わざとらしい謙そんと
からだの苦行とをともなうので
知恵のあるしわざらしく見えるが
実は、ほしいままなる肉欲を防ぐのに、なんの役に立つものではない」
(コロサイ人へ手の手紙2章20-23節)
ガラテヤ書においてパウロは
何度も「律法」によらないキリストの救いを説いてきました
それまでずっと「律法」を守ることこそ信仰だと思ってきた人々には
その教えは受け入れ難いものでしたが
「律法」にしばられればしばられるほど
人間は己を誇り、人を裁き、心が荒んでいくことから
「律法」を守る修行では人は救われないことは明らかでした
現在も、人は人の作った規定にしばられることで
それを守る己を誇り
信仰生活を勝手に難しいものにして
規定を守っている自分が信仰深いものだと思い込んでいます
こうして己を誇る満足感がその人を支えているというのは
何と空しいことでしょうか
人間は弱いので
外面の格好よさにこだわり、人の評価を気にし
どのようにして人からよく見られるか(思われるか)ということに
心を奪われてしまいがちです
これは言いかえれば
「自分に栄光を帰する」ことになり
この感覚で生きていると
いつの間にか世の中の空しい教えやだまし事に捕えられて
せっかく神の知恵という宝が近くにありながら
そして救われてそれを用いることができる立場にありながら
自ら離れて、宝を活かすことができなくなってしまうのです
コリント人への第一の手紙3章には
キリストの弟子たちに力があると勘違いしている人々に対し
「アポロはいったい何者か、また、パウロは何者か
あなたがたを信仰に導いた人にすぎない
しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである
わたしは植え、アポロは水をそそいだ
しかし成長させて下さるのは、神である
だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない
大事なのは、成長させてくださる神のみである」(5-7節)
と語り、神と人との絶対的な違いを教え
人間が決して自分に栄光を帰してはならないことを強調しています
「神にあってこその自分」
この立場をわたしたちは決して忘れてはなりません
そして
この思いが確立されていくことで信仰は深まり
神の立場というものを知れば知るほど
信仰はいよいよ堅くなります
そして、その神の立場をよくよく知るために
人の言い伝えではなく聖書のみことばを第一とし
世の中の人が愚かと思う「十字架の言葉」に希望を置いて
神に育てていただくのだという思いを持って
日々歩んでいきましょう
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが
救いにあずかるわたしたちには、神の力である」
(コリント人への第一の手紙1章18節)
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