今週のみことば


1月26日


「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない
途方に暮れても行き詰らない
迫害に会っても見捨てられない
倒されても滅びない
いつもイエスの死をこの身に負うている
それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである」
(コリント人への第二の手紙4章8-10節)


どんな事が起きても希望を失わないようにと
言葉として頭では理解しても
人の心はなかなか簡単にコントロールできないものです
それでも
その状態から心が変わらなくては
立ち上がることも、前へ進むこともできません
そして、実際に
「四方から患難を受けても窮しない
途方に暮れても行き詰らない・・」

という方向へ心が向くためには
”聖霊の働き”が必要です

「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので
だれにも教えてもらう必要はない
この油が、すべてのことをあなたがたに教える
それはまことであって、偽りではないから
その油が教えたように
あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい」
(ヨハネの第一の手紙2章27節)


ここに記された”油”とは”聖霊”のことです
聖霊のバプテスマを受けた者は
キリスト(=神)ご自身を受けた者であり
その人の中で聖霊が、正しく、必要なことを教え導くので
その人自身も常に神と共にいなくてはなりません

”神と共に居る者”は、その生き方を”神に習う者”
それは人に見せるための善行を行うような偽善的な生活ではなく
日常生活を良心的に過ごす”神の前の良心生活”を意味しており
そのような心を育て養っていくためには
聖霊の働きが不可欠なのです

「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は
キリストの顔に輝く神の栄光の知識をあきらかにするために
わたしたちの心を照らして下さったのである」
(コリント人への第二の手紙4章6節)


「あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ
油をそそいで下さったのは、神である
神はまた、わたしたちに証印をおし
その保障として、わたしたちの心に御霊を賜ったのである」
(コリント人への第二の手紙1章21-22節)


”神と共に居る者”は
聖霊をいただき、その心が照らされているのですから
開かれた道が自分の考えと違っても
そして、それが失敗のように思えたとしても落胆しません
なぜなら
神のご計画がどこにあり
その失敗と思えたことが今後どのような展開を見せるのか
人は全く知らないからです
そして
いつか、その失敗と思えたことも問題ではなかったとわかる時
そこには感謝があふれてくるのです

コリント人への第一の手紙15章10節においてパウロが
「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ている」と語っているように
自分にとって人生が逆の方向に動くような事態が起きても
それがたちまち自分にとって都合が悪い事でも
それらはすべて神の恵みであり
その恵みによって彼の心は180度変えられたのです

この、自分にとっては都合が悪い事がかえって恵みであったのだと
そのところに気づく人は
その時、自分が何者であるか
それに対して神がどのように大きな存在であるかを知り
心から感謝し
その心は大きく成長します
そして
その成長があるからこそ、先の希望がわくのです

誰でも、自分の願いどおりに人生が進めば心安らかだと思うでしょう
しかし
信仰の道は
神が主導なのか、人間の考えが主導なのか
ここが大きな分かれ道です
自分の都合を優先した信仰は自己中心の信仰であり
そこには感謝もなく、心の成長もありません

聖書の語る正しい道よりも
自分の考える正しい道に固執する限り
その人生は正しく軌道修正されないのです

聖霊があるからこそ、人の心は堅くキリストに結びつくことができ
一方、人の側も
どんな時も神と共にあろうとする心を守る努力をする
信仰はそんな”神から与えられた良心、神に向く心を守る”ことに尽きるものです

「油断することなく、あなたの心を守れ
命の泉は、これから流れ出るからである」
(箴言4章23節)

「人の心には多くの計画がある
しかしただ主の み旨だけが堅く立つ」
(箴言19勝21節)


神のみ旨(ご計画)がどこにあるのか
人は誰も知りません
思うようにいかず、カッとしたり、落胆したり、嘆き悲しんだりと
その心が揺れる時こそ
心を正しく神に向けていく努力をしていきましょう
そして
今自分が何をすべきなのか冷静に判断できるように
祈っていきましょう
その時、聖霊は働いて
必要な知恵と、乗り越える力を与えて下さいます
こうして問題を乗り越えた経験は
その人の心を、信仰を成長させ
これが将来の希望へとつながっていくのです

神の恵みによって、今日の自分がある
このことに感謝して
明日からの新しい週へと踏み出していきましょう



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