今週のみことば


2月2日


「だから、わたしたちは落胆しない
たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて
永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ
見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」
(コリント人への第二の手紙4章16-18節)


同じ章の7節には
「わたしたちは、この宝(聖霊)を土の器(人間)の中に持っている」
と記されているように
洗礼と聖霊のバプテスマを受けて救われた者は
一度イエスと共に死に、再びイエスと共に生きる者とされました
もろくてはかない土の器であるその身には
常に聖霊が内住してくださり
正しい道へと導いて下さるのですが
そこにはしばしば問題(試練)も生じます

そんな時
多くの人は、信仰していてもダメじゃないか・・と思うでしょう
信仰についての考え方は各々違うので
人間の側から見れば、自分の都合よく事が運ばないのは
神さまが助けてくれないからだと考えるのも、当然あることだと思います

しかし
信仰について考える時
あくまでも、そこで基準になるのは人間ではなく聖書のみことば
信仰者は、自分の心よりも聖書のみことばを信じることが重要で
そのためには自分の思いを捨てて(己に死んで)
新しく生きることが必要になるのです
つまり
己に死ぬことで、新たな命を与えられる
試練を通して、そこを学ぶ(実感する)ことが重要であり
自分が内側から変わるために試練があるとも言えるでしょう

だからこそ
どんな問題が起きたとしても
これでもうダメだと決めつけ、落胆してはならないのです
確かに外観はボロボロになっていくように感じるかもしれません
目に見えるもの、つまりは
富や名誉、あるいは外見や見栄へのこだわりを持つ限り
それらを追い求めてもきりはなく
追えば追うほど
かえって喪失感や絶望感で自らを落ち込ませることにもなります
それに気がつくことができれば
内側から新しく生まれ変わって
新しい価値観で生き直すことが可能となるのです

また
人間は、さまざまな間違った考え方や価値観を持っていて
救われたからといっても
それらを一気に捨て去ることができるわけではありませんから
目の前に起こる問題を通して
自分の抱える問題点に気づかされ
ひとつひとつ己に死んで、新たに生まれ変わることの繰り返しにより
神の前に少しずつ成長していくわけです

反対に
自分のやっていることが上手くいくことで
自分が偉いかのようにのぼせてしまえば
己に死ぬこともないので
神の命の働きというものがそこに現れることはありません

だからこそ
どんな事が起きても
事が上手く行ってもいかなくても
まずは聖書のみことばに耳を傾けていくとの姿勢が
その人生を左右することとなるのです

「したがって、信仰は聞くことによるのであり
聞くことはキリストの言葉から来るのである」
(ローマ人への手紙10章17節)


そして、みことばによれば
洗礼と聖霊のバプテスマを受けて救われた者は
過去の古い自分のままではなく
”新しい人”を着た者とされたとあります

「互いにうそを言ってはならない
あなたがたは、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨て
造り主のかたちに従って新しくされ
真の知識に至る新しい人を着たのである」
(コロサイ人への手紙3章9-10節)


では、”新しい人”を着たクリスチャンはどうあるべきなのでしょう
信仰とは何なのでしょう

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し
まだ見ていない事実を確認することである」
(ヘブル人への手紙11章1節)

「わたしたちは、この望みによって救われているのである
しかし、目に見える望みは望みではない
なぜなら、現に見ていることを、どうして、なお望む人があろうか
もし、わたしたちが見ない事を望むなら
わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである」
(ローマ人への手紙8章24-25節)


信仰の基本は
まず、”神に望みを置く”ということです
世の中の人々は、”目に見えるもの”に望みを置いているので
それらが得られないことでしばしば絶望するわけですが
クリスチャンは”目に見えないもの”に望みを置き
自分がどうなりたいか・・・ではなく
神がわたしたちをどうしようとされているのか
そのために自分がどうあればいいのか
毎日の歩みをいかにすべきか・・・と考えることが重要です

一般的には
そんなあやふやなことで希望が持てるのか?と不思議に思われるかもしれませんが
”神は、信じる者を必ず幸いへと導く”と信じているからこそ
神が導こうとしている道が自分にとって最高なのだとわかるのです

しかし
すぐにはそのような気持ちになれないことから
自分の思い通りに事が進まなければ
まるで見捨てられたかのように落胆してしまいがちです
そんな時
聖書のみことばに従って
目には見えない望みに向かって進もうとするなら
そこに必ず神は働いて
人を生かして(活かして)下さいます
その新たに生かされる経験が、その人にさらなる希望を与えるのです

ところが
問題が起きるたびに
自分の境遇や立場を言い訳に使い
これだから自分はもう何もできないといってあきらめてしまうのは
すべてのことをなしとげる全能の神の存在がいつまでも信じられないからであり
いつまでも、同じ言い訳の中に浸っているからこそ
神への不信から抜けだけないのです

また
人はどうしても”ないものねだり”をしがちです
自分の周りには、気づいていない幸せがたくさんあって
それらに気づく努力も必要でしょう

よく
「祈ることしかできない」と言いますが
祈ることができるのがどんなに幸いか、気が付いているでしょうか?
わたしたちは神から愛されているからこそ祈れるのです
ヤケになって暴れても問題は解決しませんが
まずは、救われた幸いを思いだし
祈れる幸せを思いだし
どういう状況にあっても、できるだけのことをする時に
道は必ず開けてきます
それがどんな道なのか見えていなくても
神が開いて下さる道だから必ず幸いな道なのだと信じる
これが信仰者の考え方です
一見、派手に見える(成功しているように見える)道でも
それらは一時的なものにすぎず
いつかは閉ざされてしまう道も多いもの
それよりも
いつまでも消えて無くならない”見えない望み”を求めて
真の平安を得ていきましょう

内側が変われば、自然に外側も変わります
これは、人間が根性で成しとげることではありません
神の愛と助けがあるからこそ可能になるのです

古い自分を脱ぎ捨て、新しい人を着て
神が望まれる「わたし」になるために何ができるのか
わたしたちに起こる問題が
成長のための良い機会となっていきますように
どんな時も気落ちせず
祈って進んで行きましょう



<目次