今週のみことば


2月16日


「真理の言葉と神の力により、左右に持っている義の武器により
ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても
神の僕として自分をあらわしている
わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり
人に知られないようであるが、認められ
死にかかっているようであるが、見よ、生きており
懲らしめられているようであるが、殺されず
悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり
貧しいようであるが、多くの人を富ませ
何も持たないようであるが、すべての物を持っている」
(コリント人への第二の手紙6章7‐10節)


この章において、1節には
「神の恵みをいたずらに受けてはならない」
と記されていますが
”いたずらに”とは”無駄に”との意味であり
せっかくいただいている神の恵み(救い)を
まるで何もないかのように軽視しないように
心して歩むべきことを教えられます
もし、この恵みを無駄にするならば
何より、イエスを信じない者たちにとっては
イエスを”そしる(非難する)”チャンスとなるでしょう

救われて、クリスチャンとなった者は
その身に、神を証する務めを負うています
ですから、自らの間違った歩み(行い)のために
かえって人々が神を非難する機会を与えないよう
気をつけなくてはならないわけです(3節)

さまざまな、あらゆる苦難に直面する時も
”神の僕”としてどうあるべきか
それが6−10節に記されています

すなわち
どんな事が起きたとしても、どんな境遇におかれたとしても
「真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と
真理の言葉と神の力とにより
左右に持っている義の武器により」(6‐7節)
さまざまな戦いに打ち勝って
そこに神の証が現れるための証人として用いられていくのです

パウロたちは、この当時
イエスのキリスト(救い主)であることと
そのよみがえりと、十字架の血による救いを伝えていましたが
それは当時の人々を”惑わす”とされた教えでもありました
しかし、それは真実であり
決して人を惑わすものではありませんでしたから
彼らは恵みを受けて
やがて多くの人から認められるように用いられ
死と隣り合わせでも生かされ
何度も捕らわれながらも殺されず
苦難の中でも喜びが与えられ
貧しくとも、多くの人々が救われ恵まれる助けをなし
目に見えるもの(財産や地位、名誉など)は何も持っていなくても
必要なものはすべて満たされるようにされたのです

こうして
苦難の道も進んでいけるよう
その戦いに勝つための武器は神による「義の武器」
目に見える「肉の武器」ではありません

確かに、財産や地位や名誉、家柄、学歴、健康などを持っていれば
それなりに助かることもあるでしょうし
一時的な解決は得られるかもしれません
しかし、問題なのは、それらが備わっていても
すべての問題解決には至らないという現実です

「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが
肉に従って戦っているのではない
わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく
神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである」
(コリント人への第二の手紙10章3‐4節)


わたしたちは、いくら救われているといっても
この世の中で生きている限りは肉体を持っていますから
肉体を持つがゆえの弱さも備えていて
だからこそ、問題も抱えていくわけです
とはいえ、神にある者は
自分の問題と向き合う時
肉の武器ではなく、神による義の武器を用いることで
問題の根本解決を図りますから
その時には、人の想像もしなかった方法で事は展開し
最後には、神の生きて働く証が立てられていくわけです

使徒行伝において
うつくしの門で施しを乞うていた足の不自由な人にペテロは言いました

「ペテロが言った
『金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあげよう
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』」
(使徒行伝3章6節)


施しを乞う人が一番欲しいのは金銀でしょう
それさえあれば目先の問題は解決するので
多くの人がそこに目を止めるものです
しかし、神の御旨は
この人の根本的な問題が解決されることでした
そして、彼は歩けるようになりました

たくさんの財産を費やしたとしても
お金が病気を治すのではなく
目に見えるものをいくら与えられても
本当に必要とする助けでなければ役に立ちません

肉の武器を頼りにし
自分は○○を持っているから大丈夫と自負していても
いつかそれが通用しない事態が人生には起こるもの
その時、肉の武器は役に立たず
もし神による義の武器を持っていれば
どんな時にも平安と希望が与えられるのです

このように
わたしたちが人生において欲しいものは
その時その時に一番必要なちょうどいい助けです
過剰なものもいりませんが
いざとなるといつも必ず神の助けがある
その経験はどんなにか心の平安に役立つことでしょう
また、大切なのは
その経験を覚えておくことです
つまりは感謝を忘れないということ
困った困ったと言いつつも
ここまで助けられて生きてきたことを実感し、感謝している人は
この先も大丈夫との平安を与えられ
さまざまな困難も乗り越えることができる人です

「それはあなたがたが責められるところのない純真な者となり
曲がった邪悪な時代のただ中にあって
傷のない神の子となるためである
あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って
彼らの間で星のようにこの世に輝いている
このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだではなく
労したこともむだではなかったと誇ることができる」
(ピリピ人への手紙2章15‐16節)


わたしたちは
社会的に目立つこともなく
特に何も持たない存在であっても
必要なものはすべて与えられるという
大変恵まれた立場にされています

日々面白くないことも困ったこともある人生かもしれませんが
多くの人が不安を抱えているこの世にあって
自分のするべきことを行っているこの日々の労は空しいものではなく
自分には何の自信もなくても
神の装いがあれば
決して惨めな自分ではありません
それがわかれば
神にあって勇気を持つことができます

わたしたちを支える信仰生活は
肉を頼みとせず、神を頼みとする毎日であること
その思いをしっかり心に持って
自分の栄光ではなく神の栄光のために
それぞれが置かれたところで
自分に与えられた役割を果たしていきましょう



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