今週のみことば


4月13日


「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ
十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描きだされたのに
いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか
わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい
あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか
あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか
御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか
あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか
まさか、むだではあるまい
すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは
律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか
このように、アブラハムは『神を信じた。それによって彼は義と認められた』のである
だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである」
(ガラテヤ人への手紙3章1‐7節)


イエスの福音を聞いて、その教えを信じ
洗礼と聖霊のバプテスマを受けてクリスチャンになったはずのガラテヤの人々は
そこに「割礼」という律法の教えが再び入ってきたために混乱していました

せっかくイエスの福音が伝えられ
正しい救いの中に入れられたのに
惑わされたガラテヤ人たちは
聖霊に導かれる歩みよりも、律法(おきて)を行うことで救われるという道へと
戻ろうとしていたのです

そこでパウロは「聞いて信じる信仰」について何度も説き
アブラハムの信仰を例にあげて語ります
アブラハムは旧約の律法を守る生き方をしていましたが
年老いた彼に子どもが与えられたのは
彼がその律法を忠実に守ったからではありません
アブラハムは、神が自分に対して子どもを与えると言った約束を信じ
それによって彼は神から正しい者として認められました
繰り返し言いますが
アブラハムは、律法を守ったから子どもが与えられたのではなく
神の言葉を聞いて信じたからこそ「義」とされたのです

「したがって、信仰は聞くことによるのであり
聞くことはキリストの言葉から来るのである」
(ローマ人への手紙10章17節)

「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために
律法の終りとなられたのである」
(ローマ人への手紙10章4節)


律法を行うことは「儀式」のようなものです
そして、キリストの言葉を信じる者は、洗礼と聖霊によって救われる道が開かれ
もはや「儀式」の中にしばられることなく
聖霊によって新しく生活を始めることとなりました

「しかし今や、神の義が、律法とは別に
しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって
すべて信じる人に与えられるものである
そこにはなんらの差別もない
すなわち、すべての人は罪を犯したため
神の栄光を受けられなくなっており
彼らは、価なしに、神の恵みにより
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
(ローマ人への手紙3章21‐24節)


アダムとエバがエデンの園で罪を犯し
人の中に罪が入ってきて以来
すべての人間は罪人として、神の栄光を受けられなくなっていましたが
そんな人間であっても
誰でも、代価を払うことなく、一方的な神の愛によって救われ
神の恵みの内に、聖霊に導かれて正しく歩む幸が与えられたのです

ところが、ここに「人の思い(肉)」が入ってきて
”御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか”
と、パウロは嘆いているわけです

「人の思い(肉)」とは
ここでは「割礼」という律法の行いが挙げられていますが
こうして昔の律法の行いにしばられる生活に戻っていくことは
すなわち、イエスから離れる道でもあります
というのも
律法の行いに熱心になると
人は自分を誇りたくなるからです
律法の行いに熱心なパリサイ人たちは
常に自分が立派に見えるようにと見栄を張っていました

これを現代のわたしたちの生活にスライドするなら
世の中一般にありがちな「人の思い(肉)」は
「世の誉れを受ける道」「お金や権力に頼む生き方」といったものがあるでしょう
あるいは
人を恐れ、偶像を恐れ
古い風習や縁起に従い
自ら不合理で不自由な生き方を選ぶこともよくあることです

かつて、わたしたちはどんな状況の中から救われてきたのでしょうか
様々な悩みや問題を抱え
救われてはじめのうちは、神に熱心に寄り頼んでいくでしょう
ところが、問題が解決し
人生が良い方向へ進み始めると
人はまた昔の自分が持っていた律法を思い出し
その目は、神ではなく世の方へと向いていきがちでもあります

クリスチャンであっても
この世で生きている限りは
世の中にあるところの習慣や決まり事には従わなくてはなりません
このように、世と決別はできないにしても
世の中の価値観に支配されない生き方を選ぶのは可能です
しかし
かつてどんな大きな問題から助けられた経験のある人であっても
神によって今日まで守られ、恵まれてきたことを
いつの間にか、自分の勘張りや努力の賜物と勘違いし
生活も安定し、ある程度先のことも見えてくると
もはや神も必要ないとばかりに
その心はどんどん神から遠ざかっていく
そんなケースは決して珍しくはありません

「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか
患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」
(ローマ人への手紙8章35節)


人は、問題を抱えている時には神に頼ります
ですから、さまざまな問題そのものがわたしたちを神の愛から離れさせるのではなく
そのようにさせるのは自分自身の心なのです

神の一方的な、無償の愛によって救われ
今日まで歩まされ、恵まれた日々を過ごしながらも
それは自分の努力によるものであって
神とは関係ないというのでしょうか
わたしたちは自分の行いが正しいから、義(=正しい者)とされたのでしょうか
イエスの福音を聞いて信じて歩んできたからこそ
今の自分があるのではないでしょうか

「しかし、あなたに対して責むべきことがある
あなたは初めの愛から離れてしまった」
(ヨハネの黙示録2章4節)


愛すなわち神から心が離れると
人の道は変わってきます
そのため、変わらない信仰の日々を保つためには
決して自分の力でここまで生きてきたわけではないことを思い出し
雑多な価値観とさまざまな教えのうずまくこの世にあって
神を崇め、神に栄光を帰す歩みを知ることが大切です
しかし
せっかく聖霊と洗礼とによってきよめられながら
再び世の中の教えや価値観に戻っていくとどうなるのでしょうか

「汚れた霊が人から出ると
休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので
出てきた元の家に帰ろうと言って、帰って見ると
その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった
そこでまた出て行って
自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中に入り、そこに住み込む
そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」
(ルカによる福音書11章24‐26節)


このような悪霊にすきを与えることのないように
本当に「恵まれた生き方」をするためには
イエスの言葉を聞いて信じる信仰が何より重要です

”御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか
あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか”

ガラテヤ人に対してパウロが語った言葉は
今わたしたちにも問われている言葉なのです



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