今週のみことば


4月20日


「このように、アブラハムは『神を信じた。それによって、彼は義と認められた』のである
だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである
聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って
アブラハムに『あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう』との
良い知らせを、予告したのである
このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に祝福を受けるのである
いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある
『律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる』
と書いてあるからである
そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが明らかである
なぜなら『信仰による義人は生きる』からである
律法は信仰に基いているものではない
かえって、『律法を行う者は律法によって生きる』のである
キリストは、わたしたちのためにのろいとなって
わたしたちを律法ののろいからあがないだして下さった
聖書に『木にかけられる者は、すべてのろわれる』と書いてある
それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人におよぶためであり
約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである」
(ガラテヤ人への手紙3章6-14節)


律法にこだわり、ただひたすら律法を守ることに固執するのは
アブラハムの持っていた信仰とは異なることが
ここで更に語られています

もう一度確認すると
アブラハムが神から義(正しい者)と認められたのは
彼が律法を忠実に守ったからではなく
『あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう』との約束を
信じて待つ信仰をもっていたからでした

そもそも「律法」とは
人間が生きていく上で守るべき道徳や儀式、社会規範について定めたもので
旧約聖書の最初の5巻が「律法の書」と呼ばれていますが
そして、これらを完全に守ることは人間には不可能であり
律法の行いにこだわる限り
人間は皆のろわれた存在になってしまうわけです
『律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる』

このように
自分の行いによっては誰も義(正しい者)とされることはありません
そして神ご自身であるイエスが十字架にかかることにより
”木にかけられる”という呪われた者の姿を自らとり
その時流した血をもって(洗礼)わたしたちを救って下さったのです
ここで律法へのこだわりは断ち切られました
更に、ご昇天後には、イエスご自身が聖霊となって信じる者に宿って下さり
こうして、自分の正しい行い(律法)によって誰も救われることはできなくても
イエスを信じる信仰によって人は義とされる恵みが与えられたのです

それでもなおガラテヤの教会においては
律法へのこだわりで混乱が起きており
ここでパウロは改めて
『律法を行う者は律法によって生きる』とのみことばを引用し
律法を守ること(こだわること)がすなわち信仰ではないことを強調しています

「あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない
もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である」
(レビ記18章5節)


「律法の書」のひとつであるレビ記においても
すでに、「定め」や「おきて」といった律法を行う人は
この”律法によって生きていく”ようになることが記され
これでは神の求める”信仰によって生きる生き方”とは違うことが示されています

また、創世記の時代にはすでにアブラハムに対して神は
『あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう』と約束され
やがて神が異邦人を律法ではなく信仰によって義とされる(救われる)のだということが
予告されているわけです(創世記12章2-3節)

「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ
律法の下に生まれさせて、おつかわしになった
それは、律法の下にある者をあがない出すため
わたしたちに子たる身分を授けるためであった」
(ガラテヤ人への手紙4章4-5節)


神であるイエスご自身が、肉体を持った人となって生れ
律法によってがんじがらめになった人間を
信仰によって救いに入らせ
更には神の子としての身分まで備えて下さったのに
まだ律法によって生きていこうとするのは愚かなことです

今日、救われているわたしたちクリスチャンであっても
教会生活の形を守ることに固執していると
それは律法の行いにこだわることとなり
信仰とは違う道のりを歩むことになるかもしれません
例えば
長年教会に欠かさず集うという行為は
行為そのものが重要視されると
信仰よりも見かけが大切になり
欠かさず集っている行為によって安心感を得ようとしがちです
こういう場合
仕事など諸々の都合で集えないとなると、今度は不安感を持つようになり
こうして人は律法にこだわるほど、生活に無理や歪みが生じ、平安を失い
かえって本当の信仰から遠のいてしまうこともあるのです
だからといって
教会へ行くことがどうでもいいというわけではありません
あくまでも形式ではなく信仰が大切だということで
神を求める心は、人をいよいよ神に近づこうとさせるでしょう
そして、信仰により人は困難の中にあっても希望が与えられ
やがて平安と感謝があふれてくるのです
決して
自分が〜をしたから神から祝されるというのではなく
自分の功ではなく、信仰によりアブラハムのように祝され
神の恵みによって生かされている事を忘れてはなりません

もう一度強調しますが
律法(おきて)は信仰がなくても守ることができます
律法は信仰を基礎としておらず
律法を追求する道は信仰とは違う道になっているのです

それでもなお律法にこだわる道を歩むことなく
信仰をもって聖霊の導きに従い
開かれた道に歩み、その場所を受け入れて
揺るぎない平安を得ていきましょう



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