今週のみことば


4月27日


「兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう
人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたり
これに付け加えたりすることは、だれにもできない
さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである
それは、多数をさして『子孫たちとに』と言わずに
ひとりをさして『あなたの子孫とに』と言っている
これはキリストのことである」
(ガラテヤ人への手紙3章15-16節)


神の「約束」については
以下のとおり記されています

「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝し、あなたの名を大きくしよう
あなたは祝福の基となるであろう
あなたを祝福する者をわたしは祝福し
あなたをのろう者をわたしはのろう
地のすべてのやからは、あなたによって祝される」
(創世記12章2-3節)


こうしてアブラハムに与えられた神の祝福の約束は
やがてアブラハムの子孫として生れる人間イエスによって成就し
異邦人にも洗礼と聖霊による救いが与えられ
神の祝福の約束を継ぐ身分とされる事となるのです

いったん契約された「約束」は人間の遺言と同じように
後になって変更されることはなく
この「約束」から430年後に「律法(モーセの十戒や他の戒律)」ができたからといって
神の祝福を相続する約束に変わりはありませんでした
では、律法は何のために与えられたのでしょうか

「それでは、律法はなんであるか
それは違反を促すため、あとから加えられたのであって
約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり
かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない
仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない
しかし、神はひとりである」

(ガラテヤ人への手紙3章19-20節)

律法は、人々が守るためというよりも
むしろ完全には守れないことが前提であり
これによって人の弱さが浮き彫りになるものでした
そして、律法はモーセを仲介者として人に与えられましたが
神の「約束」の仲介者はイエスであり
こうして神はひとりで事を行われたのです

では、律法は神の約束に反するものなのでしょうか
決してそうではありません
人は律法で救われる(義とされる)ことはなく
そのため人はみな罪の下に置かれる者となりました
自分の力で救われることがない、自分に力がないと分かった人は
神(イエス)を信じる信仰によって救われる道が示されると
その言葉を信じて、洗礼と聖霊による救いを受けるようになります
このようにして
律法は、やがて人を、救い主イエスの元に導く養育係となったのでした
そして、実際に人々が救いにあずかるようになった今
もう養育係であった律法は必要なくなったのです

律法を守ることによるのではなく
イエスを信じる信仰によって救われた者は
キリスト・イエスに結ばれた神の子であり
洗礼を受けたことは、キリストを着た状態でもあります
クリスチャンには、人種も身分も性別も関係ありません
みんなイエスにあってひとつであり
このようにキリストに属するものとなったからには
アブラハムの子孫であり、「約束」の相続人とされたのです(3章終わり)

これで、「約束」を信じる信仰と
「律法」の行いにこだわる信仰の違いがはっきりしたのではないでしょうか

多くの宗教では
「〜をしているから大丈夫」といった自分の行いの正しさで
自分に安心感を与えようとします
それぞれに決められた「律法」を忠実に守ることが重要であり
それは修行のようなものでしょう

しかし、キリスト教では
自分の行いによって自分を救う(幸いに至る)のではありませんから
修行のような信仰をするのは間違いです
クリスチャンは、あくまでも神に対する信仰・信頼によってつながっていて
神が導く道は
例え自分にとって都合が悪く思える道でも
そのまま受け入れて進むことで
本当に神の約束に至る幸いをつかんでいくのです

ところが
常に自分の考えや行動を正しいと信じ
自分の意思で進む道こそ真の道と勘違いすると
それに反した道が開かれて行った場合には
神からの導きであっても到底受け入れられないでしょう

人には生れてこのかた培ってきた「常識」があります
その中には、「〜すべき」と決められた「律法」があり
種類は色々違っていても
人は多かれ少なかれそういった「律法」に支配されているものです

そのために
考え方の違う人同士では常にトラブルが生じ
お互いの持っている「律法」を少し緩めることができれば衝突も少なくなるでしょうが
「律法」はしばしば人をがんじがらめにしばるものですから
抜け出すことも難しいでしょう
だからこそ「救い」が必要になるのです

人生における問題をクリアする(勝利する)には
過去から持ってきた自分の狭い考えや面子なども捨てて
とりあえず白紙に戻すことが大切です
今まで背負ってきたプライドも、あるいは劣等感も不安感も
すべては神の前に置いて
この先の展開を神にゆだねていくのです

聖書を律法的にとらえれば
目に見える正しい行いにばかり心を捕らわれがちですが
外観をつくろうことは信仰ではありません
わたしたちは心の内側を見る神を信じています
見せかけの熱心ではなく
心から神を信じ
問題の根本を探って間違いを正し
あるいは時を待ち
そして、「約束」を信じて希望を持ち
アブラハムの祝福を継ぐ者とされた身分であることを認識し
開かれた道を堂々と進んで行きましょう



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