今週のみことば


5月25日


「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである
だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない
見よ、このパウロがあなたがたに言う
もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう
割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく
そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある
律法によって義とされようとするあなたがたは
キリストから離れてしまっている
恵みから落ちている
わたしたちは、御霊の助けにより
信仰によって義とされる望みを強くいだいている
キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない
尊いのは、愛によって働く信仰だけである」
(ガラテヤ人への手紙5章1-6節)


”人は割礼という律法(おきて)によって義とされる”
との教えが根強く残るガラテヤの教会で
パウロは何度も、割礼は必要ないことを力説しています
すでにキリストの救いが与えられ、義とされた今
律法から解き放たれて自由になったというのに
もし再び割礼にこだわるというのなら
もはやキリストは用のない存在であり
そういう人は、律法のすべてを完璧に行って
自らを救わなくてはなりません
これはキリストから離れた、恵みから落ちてしまった状態です

本当の信仰者は
聖霊と洗礼を受け
イエスをキリスト(救い主)と信じる信仰によって義とされることを信じています
その信仰は、聖霊の助けがあるからこそ可能であり
人が神から求められているのは
割礼などの律法の実践ではなく
”愛の実践を伴う信仰”なのです

現在、少なくともわたしたちは割礼を実践してはいませんが
その心の中には、多くの”世の律法”が存在しているかもしれません
世の中には人間が決めた多くの”しきたり”や迷信
お金や権威を万能とする思想・価値観があり
「〜しなくてはならない」「〜しているから大丈夫」というように
多くの人がその”世の律法”に振り回され
不自由の中に閉じ込められているのです

そして、たとえ聖霊と洗礼を受けて救われていても
なお”世の律法”の支配下にいるなら
その人にとってキリストは無益な存在となってしまいます
なぜなら、そういう人は神を信頼せず
律法を頼り、それを守って生きることが中心になっており
常に不安定な世の風潮の中で
神を知らない人々と一緒に右往左往して生きるからです

ガラテヤ人への手紙2章4節には
救われた人の中に”にせ兄弟”が忍びこんで来て
せっかく得た自由をうばい
再びわたしたちを奴隷にするよう狙っていると記されています

救われてクリスチャンになったからといって
決して自分の思い通りに人生が進むわけでもなければ
思わぬ試練に戸惑うことも少なくないでしょう
その一方で
日々の生活の中で、多くの助けと慰めも体験します
確かに神は生きて働いていて下さると
ひとつひとつのことを感謝とともに覚えておけば
行き詰った時に必ずその感謝が生きてきて
この先もきっと大丈夫なのだという希望に結びついてきます
しかし、過ぎ去った日々の不思議な助けの数々を忘れてしまったなら
そこに感謝もなく
希望もわいてこないでしょう
その”過ぎた日の助け”を思い出すかどうかが信仰なのです

もし、信仰ではなく律法で生きるなら
「律法を守っているから大丈夫」と思っていても
いざ困った事態に陥ったなら
「律法を守っていたのになぜこんなことが起こるのか」と
失望したり、あるいは恨んだりするようになってしまうでしょう
このような恨みの生き方は
人生の進歩のない生き方であり
神にゆだねて生きていく信仰とは全く異なるものです

神が人の肉体を持ってこの世に生れて下さったイエスは
その生涯を通して
わたしたちに信仰者の生き方の見本を示して下さいました
その教えの中心は、律法ではなく信仰で生きることであり
たとえ自分に不都合なことが起きたとしても
神に希望を置いて、信仰を持ってそれを受け入れて行くことが重要です
その”従う究極の姿”が
十字架にかかることであり
それは、神が人間を無償で愛して下さる証なのでした

全人類に対して与えられた聖霊と洗礼による救いは
信じる人すべてに無償で与えられるものです
そして、わたしたちもその救いを受け
神よりの無償の恵みを受けて今日に至っています
自分が努力したわけでもないのに与えられた大きな恵みの数々を
感謝と共に思い起こすことができれば
試練と思えることもそのまま受け入れて
その先にどんなことが起きてくるのか待とうという希望が与えられます
更に、そうした潔い生き方は
やがて神を知らない周りの人々に対して
新たな希望を与えるものとなるのです

こうして、わたしたちクリスチャンは
無償の愛によって救われたこの身をもって
その生涯の生き方をもって
世の中の人々にこの福音を示していく役割を担わされています

人の中には
自分がとても辛い状況にありながら
なお周りの人々を思い、愛していこうとする人がありますが
これは、人を思う心、愛する心を持っている神の思いが反映されたもので
人間イエスの歩みを通して
クリスチャンは、人に対する心を学んでいくことが大切です

自分さえ幸せであればいい、ではなく
周りの人々が救われて幸いになることに心を向け
何よりも自分の子どもに対して信仰を財産として残していきたいと
”過ぎた日の助け”を忘れない信仰者は願うのではないでしょうか
そして
律法にこだわる苦しい修行のような生活ではなく
神を信頼し、開かれた道に従う本当の信仰生活を実践しながら
そこに何が起きてくるかを待ち
信仰の道に歩むことの幸いと楽しさを実際に示すことが
次世代に福音を伝えることにつながるのです

自分の命をかけて人を救えるのは神だけです
その大きな恵みにあずかっていることを感謝し
その思いがサタンに奪われて
再び世の中の奴隷になっていかないように
自分の望みばかりをごり押しするのではなく
必要なことは必ず成されると信じて
神のご計画がどのように展開されるのかを待ちながら
各々自分のなすべきことをなし
希望を持って祈って進んで行きましょう



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