今週のみことば
6月22日
「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で
自分の手であなたがたに書いています
肉において人からよく思われたがっている者たちが
ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに
あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています
割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが
あなたがたの肉について誇りたいために
あなたがたにも割礼を望んでいます
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに
誇るものが決してあってはなりません
この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対して
はりつけにされているのです
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです
このような原理に従って生きていく人の上に
つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」
(ガラテヤ人への手紙6章11-16節)
パウロがガラテヤ人の教会に送った書簡はここで終わります
最後に彼が強調している事は
割礼という律法によって人は救われるのではなく
イエスの十字架の救い、すなわち洗礼と聖霊のバプテスマを受け
キリストの心を心とする者として成長していくことこそ最も重要なのだということです
律法によって生きる人は
常に自分が人から良く思われようと見栄を張り
人にもまた律法を強要して
イエスの十字架による救いから遠ざけています
しかし、信仰によって生きるクリスチャンは
人の誉れを望むのではなく
肉(世)を頼みとせず
イエスにあること(救われていること)によって希望を持って生きていく
これこそ”真の割礼を受けた者”なのです
「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です
わたしたちは神の霊によって礼拝し
キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです」
(ピリピ人への手紙3章3節)
「彼ら」とは、”切り傷にすぎない肉の割礼を受けた者”
せっかくイエスが救い主として来て下さったのに
それを信じず、古い律法に従っていく人たちです
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく
また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません
内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり
文字ではなく”霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです
その誉れは人からではなく、神から来るのです」
(ローマ人への手紙2章28-29節)
「しかし今は、わたしたちは、自分をしばっていた律法に対して死んだ者となり
律法から解放されています
その結果、文字に従う古い生き方ではなく
”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」
(ローマ人への手紙7章6節)
律法=文字に従ってなされる割礼が肉の割礼であり
聖霊によって心に施される割礼が真の割礼
そして、この真の割礼を受けた者は
異邦人であっても内面がユダヤ人であり
人の誉れを求めるのではなく、イエスを誇りとして生きていくのです
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ
その死にあずかるものとなりました
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように
わたしたちも新しい命に生きるためなのです」
(ローマ人への手紙6章4節)
イエスの救いによって新たに生れた者は
律法から解き放たれ、自由の身となりました
現代に生きるわたしたちに割礼は縁のないものですが
この世に生きている限り
世の中にあるさまざまな教えや価値観、しきたり、風習といった
さまざまな律法と無縁ではありません
多くの人が、人やお金により頼み
偶像や縁起に心を寄せ
いつまでも古い文字に従う生き方から解放されない中で
イエスの名による救いを受けたクリスチャンは
自由の身となった者であっても
信仰生活の中になおも人の誉れを求め、見栄を求めていくなら
自ら再び不自由の中に閉じ込められていくようなものです
語る理屈は立派でも
イエスの教える愛に根差した生き方に向かおうとしなければ
イエスにある者としての成長がありません
”新しい命に生きる”ために救われたこの身が
いつまでも古い律法でしばられていくことがないように
自らの抱える弱さと向き合い
イエスにあること(救われていること)によって希望と誇りを持ち
惑わされることなく進んでいきましょう
<目次