今週のみことば


6月29日


「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました
これは、神の豊かな恵みによるものです
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ
すべての知恵と理解を与えて
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました
これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され
あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます
天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです
キリストにおいてわたしたちは
御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ
約束されたものの相続者とされました
それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが
神の栄光をたたえるためです
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き
そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです
この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり
こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり
神の栄光をたたえることになるのです」
(エペソ人への手紙1章7-14節)


エペソの教会の人々へ向けた手紙は
まず、洗礼と聖霊のバプテスマを受けてクリスチャンとなったひとりひとりは
神の愛によって天地創造の前から選ばれていたことと
それは、神の前に「汚れのない者」として成長するためであることが記されています(4節)

天地創造の主である神ご自身が肉体をもってこの世に来て下さり
十字架にかかり、流した血による洗礼のバプテスマを受けて
わたしたちは罪の体から解放されることになりました(7節)
更には、神ご自身が聖霊としてひとりひとりの中に宿り
「神のご計画」を理解するための知恵と悟りも備えて下さったのです(9節)

この「神のご計画」とは
時が満ちるに及んで実現される「救いの完成」であり
地にあるものも天にあるものもすべてがキリストの元にひとつにまとめられる
すなわち「新天新地」に至るまでを記したものですが(10節)
今ここに生きているわたしたちにも
各々の人生が「救いの完成」に向けてどのような道をたどり
そこをどのように従っていけば
惑わしと苦難の多いこの世にあっても天国(平安)を体験する者となれるのか
それぞれに対する神のご計画があるのです

こうして、神に選ばれ、救われてクリスチャンとなった者は
神の恵みを継ぐ「相続者」であり
自分の誉れのためではなく
神の栄光をたたえるため
神が生きて働いている事の証人となるために生きています
そして、天国を受け継ぐ者の保証として
「聖霊」が与えられました

「神はまた、わたしたちに証印をおし
その保証として
わたしたちの心に御霊を賜わったのである」
(コリント人への第二の手紙1章22節)


ただし、洗礼と聖霊のバプテスマを受けて救われ、クリスチャンになっても
その生涯の歩みを通して救いは完成されていくわけですから
神の前に「汚れのない者」として成長するためどうするべきかが
肉体をもった人間イエスの生き方をもって教えられています

「『彼におる』という者は、彼が歩かれたように
その人自身も歩くべきである」
(ヨハネの第一の手紙2章6節)

「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け
御足のあとを踏み従うように、模範を残されたのである」
(ペテロの第一の手紙2章21節)

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように
わたしは手本を示したのだ」
(ヨハネによる福音書13章15節)


こうして残された「模範」や「手本」とは
ガラテヤ人への手紙5章に記された
愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制
といった「御霊の実」を持った歩みですが
このようなイエスに習う正しい歩みをしようにも
人間は「肉の弱さ」を抱えていて
その心を自分の頑張りや修行によって変えることはできません
神に習う歩みには聖霊の導きや後押しが必要であり
この聖霊が常に「助け主」となって下さるのです

つまり
神と共に歩む平安な人生に
「洗礼」と「聖霊」を受けること
更には、「肉体(血)」をもった人間イエスの歩みに習うことは
三つで一つのセットです

「あかしをするものが、三つある
御霊と水と血とである
そして、この三つのものは一致する」
(ヨハネの第一の手紙5章7節)


人の歩みにはそれぞれに違った神のご計画があり
選ぶ歩み方もそれぞれです
ガラテヤ人への手紙5章に記された「肉の業」である
姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心
不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの

といった「人間の弱さ」との戦いには
神の助けなしに勝つことはできません

だからこそ「聖霊」があるのだということ
そして、救われてキリストのものとなったからには
「肉の業」から離れ、「聖霊」の導きに従っていくように
それぞれが置かれたところで自分のできることをするのが重要なのです

それは何気ない日常での配慮であったり
穏やかな解決を望む思いであったり
自分の面子や誉れのために生きる方向から
神に喜ばれる道へと方向転換すること

面白くない出来事も受け入れて
つまりは、運命をそのまま受け入れて
その先の展開を神にゆだねていく心の鍛錬でもあるでしょう

しかしながら
どのようなところに置かれても
神の恵みを受け継ぐ相続者であることは間違いないのですから
常に希望をもって歩んでいきたい
内側に聖霊があるからこそ
それも可能となるのです

「事の帰する所は、すべて言われた
すなわち、神を恐れ、その命令を守れ
これはすべての人の本分である」
(伝道の書12章13節)




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