今週のみことば
8月3日
「こういうわけで、あなたがた異邦人のために
キリスト・イエスの囚人となっているパウロ
わたしがあなたがたのために神から賜った恵みの務めについて
あなたがたはたしかに聞いたであろう
すなわち、すでに簡単に書き送ったように
わたしは啓示によって奥義を知らされたのである
あなたがたはそれを読めば
キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる
その奥義は、いまは、御霊によって
彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが
前の時代には、人の子らに対して、そのようには知らされていなかったのである
それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって
わたしたちと共に神の国を継ぐ者となり
共に一つのからだとなり
共に聖書にあずかる者となることである」
(エペソ人への手紙3章1-7節)
ここでパウロは自らを「キリスト・イエスの囚人」と表現していますが
本来「囚人」という言葉には
”法律に従って捕えられた人”との意があります
これに対して、パウロは
”(イエスをキリストと信じる)信仰に従って捕えられた人”
という意味の囚人なのです
彼はイエスによって直接捕えられ
「神のご計画」を教えられました
それは、イエスが生れる前の時代にはまだ知らされていなかったこと
すなわち、異邦人が洗礼と聖霊のバプテスマを受けて救われ
神の選民と同じ恵みを受け継ぐ立場とされることを示しています
しかし、この救いを受けた段階で神のご計画は完成するわけではなく
2章の最後に
「このキリストにあって、建物全体が組み合わせられ
主にある聖なる宮に成長し
そしてあなたがたも、主にあって共に建てられ
霊なる神のすまいとなるのである」
と、締めくくられているように
ひとりひとりが「神の宮」として成長するべきことと
そのために少なからず戦いがあるのだということも
よく知っておかなければならないことです
テモテへの第二の手紙1章8節において、パウロは
自分がイエスの囚人であることを恥じることなく
むしろ、神の力に支えられて
神が喜ばれる姿へ成長するために
さまざまな戦いを忍んで行くように教えています
更に2章の3-4節においては
「キリスト・イエスの良い兵卒として
わたしと苦しみを共にしてほしい
兵役に服している者は、日常生活の事にわずらわされてはいない
ただ、兵をつのった司令官を喜ばせようと努める」
とあるように
イエスを信じる信仰によって捕らわれた囚人は
司令官であるイエスを喜ばせるために戦う兵卒でもあります
イエスの兵卒であるからこそ
日常の事に不安になってただそれを心配する日々ではなく
「あすのことを思いわずらうな」(マタイ6章)との教えに従って
ただ自分に与えられた使命を果すことに集中していけるのです
パウロ自身は
イエスが救い主キリストであることを伝えたがために苦しみを受け
犯罪者として鎖につながれもしました
しかし、神の言葉というものを人は支配することはできず
その言葉を伝えていく使命にパウロはまい進していきました(テモテ後2章9節)
こうして、自分を召して下さった神を喜ばせるために
自分に与えられた使命に忠実に働くパウロには
必ずそこに神の恵みが伴い
彼は他の人々もまた自分と同じように、イエスを信じ
各々に与えられた使命に忠実に歩んでほしいと勧めているのです
「しかし神のゆるがない土台はすえられていて
それに次の句が証印として、しるされている
『主は自分の者たちを知る』
また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』」
(テモテへの第二の手紙2章19節)
救われて、イエスのものとなったわたしたちは
そこからは神のゆるがない土台の上に人生を建築していきます
世の中の多くの人々が将来を心配しながら生きている中で
もしその不安というものが取り去られたなら
どんなにか安らかな生き方ができることでしょう
人生の土台が、人ではなく神にあるからこそ
信仰を交えた歩みをなし
平安な生き方が可能となるのです
「主に結ばれた者としてゆだねられた務めに意を用い
それをよく果たすように」
(コロサイ人への手紙4章17節)
イエスの名による救いを受けて、イエスと結ばれた者にとって
今おのおのが持っている務め(立場や職業など)は
神から与えたれた使命です
幼い子どもから、老齢の人に至るまで
それぞれ置かれた場所は異なってはいても
開かれた道を歩んでいくことこそ使命であり
そこで神の助けを得、希望をもって進んでいく事が大切です
その時、もし人生の土台が神ではなく人間の面子であれば
常に自分の理想を追いかける歩みとなり
せっかく救いを受けていても
土台が異なれば、その生き方は決して平安なものとはなりません
人と比べては劣等感や優越感で揺らいでいるような
過去の間違った生き方から方向転換し
神と結ばれた者としての自信を持って
良心的な歩みをこころがけていきましょう
人間の面子が土台となった生き方にはトラブルが付きまとい
神が土台の人生には柔らかい対応があります
この柔らかさが神の心であり
いかにその心に習って歩むかが信仰者の課題です
人には弱い部分が多く
少しの事にも文句が言いたくなるものですが
そんな時こそ、信仰を思い出し
聖霊がうちに居て下さる事を信じて祈っていきましょう
ただ怒りや嘆きで心がいっぱいになってしまわないために
そこに神の心を交えて
愛に根ざし、愛を基とした生活を教えられ
ひとりひとりが少しずつ変わっていくことができますように
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