今週のみことば


8月10日


「こういうわけで、わたしはひざをかがめて
天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る
どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により
力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように
また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み
あなたがたが愛に根ざし、愛を基として生活することにより
すべての聖徒と共に
その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って
神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る
どうか、わたしたちのうちに働く力によって
わたしたちが求めまた思うところのいっさいを
はるかに越えてかなえて下さることができるかたに
教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン」
(エペソ人への手紙3章14-21節)


神の選民であるイスラエル人とは縁のない異邦人が
イエスの名によるバプテスマを受けて
イエス・キリストを土台とした人生へと生き方を改め
その土台の上に組み立てられていく・・(2章20-22節)
つまり、愚かな者が救われて
神のものとなり、神の中に組み入れられ
神によって組合わせられて
やがて自分自身が神の宮として成長するとは
あまりに素晴らしい神のご計画であり
これを知ったパウロは
神のみ前にひざまずいて祈ります

その祈りの中に
”あなたがたの内なる人を強くして下さるように”(3章16節)
とありますが
「内なる人」すなわち「人間の内面」には
神から造られた時に備えられた「神の性質」と共に
「肉の心」も存在し
この相反するふたつの性質が
ひとりの人の心の中で常にせめぎ合いをしています

ローマ人への手紙7章18節に
「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には
善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている
なぜなら、善をしようとする意思は、自分にあるが
それをする力がないからである」

と記されているように
人は善をしようと思っても、悪が入り込んで邪魔をするのです

「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが
わたしの肢体には別の律法があって
わたしの心の法則に対して戦いをいどみ
そして、肢体に存在する罪の法則の中に
わたしをとりこにしているのを見る
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう
だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(22-24節)


このように、人の心には二面性があるため
自分で自分を正しくコントロールするのも難しく
そんなみじめな存在である人間を救うのは神しかありません

こうして洗礼と聖霊のバプテスマを受けて救われた人であっても
「内なる人」の中になおも肉の弱さは残りますから
聖霊に助けられながら
各々の「神の性質」をしっかり育てて強くしていただく事が重要です

現実に
人は神に祈りつつ、一方で神を忘れて
自分勝手な歩みをしがちですから
神に従う心、崇める心を強くしていかなくては
たとえ願いがかなっても
それが益になるかどうかわかりません
仮にお金持ちになったとしても
そのお金が有意義に用いられないこともあります
詐欺に引っ掛かる人というのは
その人の心の中に欲があるからそうなるわけで
神よりもお金が重要だと思うことから(お金が土台になった生き方)
正常な判断ができなくなってしまうのです

そのような間違いに陥らないために
色んな問題に帳面した時には、まず神を思い出し
信仰に基づいた判断をすることが大切です

神は人間の経験や知識をはるかに越えた愛をもって
わたしたちに必要なことを教え導いて下さいます
愛に根ざし、愛を基とした導きや恵みは
人間が何かしたから引き換えにもらうようなものではなく
そこには人間にわからない「神の領域」があるのです

人生には色んな事が起こりますが
そこで適切な対応ができるかどうかが重要で
救われて神のものとなり、聖霊に導かれているからこそ
とっさの判断ができるというもの
こうなっていくために
愛であるイエスに根ざした(土台とした)生き方をして
内なる人を強くすることを教会を通して学んでいきましょう

「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのだから
彼にあって歩きなさい
また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように
信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい」
(コロサイ人への手紙2章6-7節)


信仰は、目に見えない根の部分が大切です
とにかく神を信頼していないと信仰は育ちません
神であるイエスがどのような方であり
その愛がどれほど大きなものであるか
そして、それを信じていく心を育てるのが教会です

「事の帰する所は、すべて言われた
すなわち、神を恐れ、その命令を守れ
これはすべての人の本分である」
(伝道の書12章13節)


救われてもなお、神の心だけをもって生きているわけではないわたしたちは
これからもいよいよ神をおそれ、信頼し、正しく導かれ
その導きに従っていかなくてはなりません
ただし
これは決して恐怖から信仰するのではなく
「おそれる」というのも「畏敬の念を抱く」という意味です

信仰生活は、本来
神を楽しみ、信じ、尊んでいくものであって
(自分も含めた)人のつくった律法(おきて)にしばられた
苦しい修行ではありません

「あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ
心の中で神に敵対していた
しかし今では、御子はその肉のからだにより
その死を通して、あなたがたを神と和解させ
あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として
みまえに立たせて下さったのである」
(コロサイ人への手紙1章21-22節)


神が肉体をもった人なるイエスの死により
人間には救いの道が開かれ
神と和やかに親しむ生活が約束されましたが
そのためには、しっかりと信仰に踏みとどまり
福音の希望から離れない事が不可欠です

信仰生活は難しい修行や勉強ではなく
ただ神にあることを喜び、信じて
日々、ありがたいなあと感謝して歩むことです

神に満ちている愛によってわたしたちも満たされ
どんな時も神を忘れず、信頼し
内なる人が強くされ
感謝にあふれた日々でありますように



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