今週のみことば


9月7日


「こうして、あなたがたは、神に愛されている子どもとして
神にならう者となりなさい
また愛のうちを歩きなさい
キリストもあなたがたを愛して下さって
わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしい香りのささげ物
また、いけにえとしてささげられたのである」

「そこで、あなたがたの歩き方によく注意して
賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き
今の時を生かして用いなさい
今は悪い時代なのである」
(エペソ人への手紙5章1-2節、15-16節)


キリストは、わたしたちを愛して下さったゆえに
自らが良い香りの捧げ物、いけにえとなって十字架にかけられ
洗礼と聖霊による救いを与えて下さいました

自分ではどうしようもない弱さをもつ人間であって
自分の頑張りではなく
この神の一方的な愛により救われ
神に愛される子どもとされたわたしたちは
救いを受けの後、この愛に習う生き方をするようにと勧められています

愛とは神ご自身であり
神が人の姿となったイエスご自身の生き方に習うことで
わたしたちの人間的な弱さのうちにも神が働き
愚かな生き方を捨てて、賢く生きていく道を教えられていく
そう、今はとても悪い時代だからこそ
わたしたちは神の知恵がなくては賢く生きていくことはできません

「しかし今は、これらいっさいのことを捨て
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨ててしまいなさい
互いにうそを言ってはならない
あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て
造り主のかたちに従って新しくされ
真の知識に至る新しき人を着たのである」
(コロサイ人への手紙3章8-10節)


洗礼と聖霊とによって救われたクリスチャンは
古い自分を脱ぎ捨てて
新しい人(神ご自身)をその身に着た者とされました
ただし、人間の弱さはなおも残っており
何かあればすぐに、怒り、憤り、悪意、そしり・・・といった肉の思いと
決して無縁ではいられません
だからこそ、そんな時にどうすればいいのか、自分の取るべき道は如何に?と
その判断基準を聖書に求めていきます

キリストに習う生き方を学ぶ上で
究極の愛を示したみことばはこれでしょう
「人がその友のために命を捨てること、これより大きな愛はない」
(ヨハネによる福音書15章13節)

わたしたちは、現実には人のために自分の命を差し出すことはできません
ただ、自分が少し引くことで相手が助かることがあり
その心に少し愛を加えることにより
自分の感情を抑え、相手の立場を考慮した行動をすることはできます

また
マタイによる福音書5章39節には
「もしだれかがあなたの右のほおを打つなら、他のほおおも向けてやりなさい」
という有名なみことばがありますが
この意味については、同じ節の中に
「悪人に手向かうな」と記されています

悪に悪で報いてもきりがありません
「人がその友のために命を捨てること」と同様に
問題を乗り切るためには、神の愛と知恵が必要です

また、人は長く生きてきたとしても
すべての事を知っているわけではありませんから
神の知恵をもって賢く生きていかなければ
だまされることもあります

上記のみことばは
決して「お人好し」になって犠牲になるというものではなく
キリストの愛に習う許しの心と
その知恵による賢い対応を求めているわけです

人の計算通りに物事は進みませんし
人生にはどうしようもないことも起こります
その時わたしたちは
ただ嘆き、絶望していくのではなく
今まで助けられて今日があると思い出すことが大切です
もし助けられたことを何も思いださないとすれば
その人は
「自分の力で生きてきた」と
自分を過信しているのかもしれません
実際に、お金や権力をもっている人は
自分の力である程度の事は乗り越えていけますが
すべて自分の力によるものと思っている間は「感謝」がないので
何度も同じような問題に悩まされることになるでしょう

神から来る試練は
その人が大切な事に気づくためにあります
自分の力が及ばないことがわかると
人は自分の力に限界があることを悟るのです
その後、試練を神と共に乗り越える道を選び
キリストの心に習う歩みを学んでいく時
辛いはずの試練が自分にとって益となることを知っていきます
なぜなら
人は自分の弱さを知るほど、神の働きの大きさも知り
自分には力がなくても
この神が聖霊として自分の中に宿っていて下さるから大丈夫なのだと
本当の自信をもって生きていけるようになるからです
また
自分の弱さを通して、人の弱さを思うこともできるようになり
そこから配慮や優しさも生れるでしょう

人にはたくさんの心配事があって
そのうちの一つが解決しても平安にはなれません
神と共に、その愛のうちを歩んでく
つまり、神が人に望んでおられる「み旨の道」を知り
そこに従っていく時に
一つ一つの問題の先には人の思いを越えた展開があって
わたしたちは神のはかり知れない大きさを知って
そこに絶対の安心感と信頼を持つことができるようになるのです

ところが、多くの人は
神の「み旨の道」に従うことよりも
自分の願いに神が従ってくれることを望みます
それは、神が選んで下さる道が絶対に間違いのない幸いな道とは知らず
自分が正しいと思っている道に固執するからなのですが
その思いを変えていかなくては
本当の意味で従うこともできませんし
結局いつまでも自分の正しさを信じた歩みになってしまうのです

そんな古い自分を脱ぎ捨てて
新しくキリストと共に生きるために
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書には
実際にイエスご自身がどのように問題に対処されたかが
具体的に記されています

イエスご自身は神である身ながら
権威を利用した上から目線ではなく
けっして横暴でもなく
権力に明かした教育をしていません
物わかりのわるい弟子たちに忍耐をもって真理を説き
お金持ちではなく貧しい人々を相手にし
常に愛をもって相手のためになる事をやっていく
また、税金を払う場では、その法律にしたがい
決して問題を起こさない一方で
神の宮の中で商売をする人を追い出し
陥れようとしてやってくる人々には知恵の言葉で対処し
最後は、救い主としての使命をまっとうするために十字架にかかる・・

その歩みには多くの事を教えられます
わたしたち人間はどうしても自分の「我」というものが先立ち
自分の正しさを人に押し付け
あるいは人をおそれ、人によく思われようと媚びたり
上手くいかなければ、自分を省みるよりも
人のせいにしてしまいがちですが
いくら救われてクリスチャンになったと言っても
このままでは「神を着た新しい自分」とは程遠い状態でしょう

「あなたがたはよく知っておかねばならない
すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者
すなわち、偶像を礼拝する者は
キリストと神との国をつぐことができない
あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない
これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである
だから、彼らの仲間になってはいけない
あなたがたは、以前はやみであったが
今は主にあって光となっている
光の子らしく歩きなさい
光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである
主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい」
(エペソ人への手紙5章5-10節)


「主に喜ばれるもの」となるために、「み旨」はどこにあるのか考える際
人に迷惑をかけたり、反対に自分を過信して問題を抱え込んだり
結果的に、相手も自分も生き辛くする道は
み旨の道とは言えないでしょう

闇の中で生きていた時代は終わり
すでに光の子となった今
決して闇に引き戻されることなく
光の子らしく生きる生き方を聖書に求めていきたいものです



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