今週のみことば


9月14日


「妻たる者よ、主に仕えるように自分の夫に仕えなさい
キリストが教会のかしらであって
自らは、からだなる教会の救い主であられるように
夫は妻のかしらである
そして教会がキリストに仕えるように
妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである
夫たる者よ、キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように
妻を愛しなさい
キリストがそうなさったのは
水で洗うことにより、言葉によって
教会をきよめて聖なるものとするためであり
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく
清くて傷のない栄光の姿の教会を
ご自分に迎えるためである
それと同じく、夫も自分の妻を
自分のからだのように愛さねばならない
自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである」
(エペソ人へ手の手紙5章22-28節)

ここは結婚式の時に読まれるみことばです

ここにおいて「教会」とは、単に建物を指すのではなく
キリストを信じ、その救いを受けたクリスチャンのことであり
クリスチャンは男女問わずみな「神の花嫁」となる立場なので
キリストに従って歩んでいきます

この関係を身体に例えれば
頭はキリスト、体はクリスチャン
そして、夫婦となる男女にもまたこの関係をあてはめ
頭である夫に、体である妻は従い
夫も妻を愛して大切にしていくようにと教えているのです

ただし、「水で洗うことにより、言葉によって」
つまり洗礼と聖霊を受けて救われてクリスチャンになっても
それぞれすぐに神の花嫁として完成されるのではなく
信仰生活を通して「成長」し
「清くて傷のない栄光の姿の教会」となっていくことが求められています

夫婦間においても
お互いを愛し、思いやる心によって、お互いが成長し
良い夫婦として完成されていくことはとても大切です

ところが、人間の心にはさまざまな思いや考えがありますから
意見が食い違う場合には衝突も起こります
これは夫婦間のみならず
あらゆる人間関係においても同じ事
怒りのコントロールが難しく
カッとなった時にはどうすればいいのでしょうか

「最後に言う
主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい
悪魔の策略に対抗して立ちうるために
神の武具で身を固めなさい
わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく
もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者
また天上にいる悪の霊に対する戦いである
それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて
堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ
正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき
その上に、信仰のたてを手に取りなさい
それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう
また救いのかぶとをかぶり
御霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい
絶えず祈りと願いをし
どんな時でも御霊によって祈り
そのために目を覚ましてうむことがなく
すべての聖徒のために祈りつづけなさい」
(エペソ人への手紙6章10-18節)


わたしたちは、トラブルのために目の前の人に対して怒り
病気など降りそそぐ災いを嘆き
あるいは心の中のどうしようもない欲に振り回され
さまざまな戦いのうちに日々を送っています

しかし、このような戦いは表面的なものであって
わたしたちにとって本当に戦わなくてはならない相手は
この世を支配している悪の霊=サタンです

なぜなら
例え小さなトラブルであっても
怒りの感情をサタンがあおることで
問題は想像を超えて大きく膨れ上がってしまうからです
それを「魔が差す」とも言い
このサタンの惑わしにのっていたのでは
自らトラブルを大きくしてしまいかねません

そんなサタンとの戦いに必要なのが「神の武具」
具体的には、まず「真理=神」の存在をはっきり確信し
神の望まれる「正義」と「平和」を胸に
「信仰」をもって踏み出していく
そうするためには何より「救い」が必要です
これらの武具で身を固めた後
「神の言葉」を剣として戦いに挑んでいくのです

思わずカッとなった時
わたしたちは、キリストの愛をもった歩みを思い出し
祈りをもって心のブレーキとします

もちろん、正しいことははっきり主張しなくてはなりません
言うべき事は言い、するべきことはする
その際には
こちらの正義が通るように
知恵を用いた言動が必要になります

また、相手を打ち負かすことに熱心になってしまわないように
冷静であることも大切です
そうでなければ
いつの間にか自分は何か偉くなったような気がして
本来の目的よりも面子を守ることに必死になり
方向性を間違えてしまうかもしれません

信仰の歩みは
ちょっとした心がけで変わります
これは自分の面子にこだわる人ほど従いづらいかもしれませんが
いつも語られる「キリストの心を心とする」とは
思いやりをもった対応をすることですから
自分の正義を通すために
人をけちらして自分が優位に立とうとするのではなく
祈って賢い方法を求めていきましょう

ユダ書9節には大天使ミカエルがサタンと戦う様子が
以下のように記されています
「御使いのかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ合った時
相手をののしりさばくことはあえてせず
ただ、『主がお前を戒めて下さるように』と言っただけであった」


相手を徹底的にやりこめてひれ伏させるのは楽しいかもしれません
しかし、ののしり合いからは決して良いものは生まれませんから
あとは神にゆだねていく
その先何が起こるかは神の領域です

このみことばをひとつ心に留めておくだけで
わたしたちの対応は変わってくるのではないでしょうか
決して、相手の言いなりになればいいというものではありません
ただそこに少しだけ愛を加えて、自分を抑えて
徹底的にやりこめることまではしない
そうするとサタンが働くスキがありませんから
あとは神のひとり舞台です

その時、みことばは武器となって
人間ができない方法でもって問題を解決に導くでしょう

「そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して
賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き
今の時を生かして用いなさい
今は悪い時代なのである」
(エペソ人への手紙5章15-16節)


悪い時代だからこそ、神の知恵をもって賢く歩む
これがクリスチャンの生き方です
そのために、ただ感情に流されず
細かな気配りをもってまわりを見渡していきましょう

「夜はふけ、日が近づいている
それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて
光の武具を着けようではないか」
(ローマ人への手紙13章12節)

「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく
神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである」
(コリント人への第二の手紙10章4節)


人間の知恵や頑張りには限度があります
ましてや、サタン相手では太刀打ちできません
しかし、神の武具をもっていけば
どんな大きな問題にも打ち勝つことができるのです

「この教会はキリストのからだであって
すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが
満ちみちているものに、ほかならない」
(エペソ人への手紙1章23節)


教会とは
キリストに愛されている体であり
すべてのものを満たしておられる神が満ちているところです

つまり
キリストにあるクリスチャンには
その内側に神が満ちていて
そこからすべての問題に対処する知恵も力も与えられるということ
そのことをかたく信じ
この世の戦いを、最後まで信仰をもって戦っていきましょう

「わたしは戦いを立派に戦いぬき
走るべき行程を走りつくし、信仰を守り通した」
(テモテへの第二の手紙4章7節)




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