今週のみことば


9月21日


「わたしはこう祈る
あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において
いよいよ増し加わり
それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ
キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり
イエス・キリストによる義の実に満たされて
神の栄光とほまれとをあらわすに至るように」
(ピリピ人へ手の手紙1章9-11節)

ここを別の訳では以下のように記されています

「わたしは、こう祈ります
知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり
本当に重要な事を見分けられるように
そして、キリストの日に備えて
清い者、とがめられるところのない者となり
イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて
神の栄光と誉れとをたたえることができるように」


ここで語られている
わたしたちが見分けなくてはならない「本当に重要な事」とは何でしょうか

人間がひとりで生きていくには限界があります
どんなに頑張ってみてもできないことはできない
だからこそ神の助けがいるのですが
神の知恵より自分の知恵に頼ろうとし
残念ながら、神の助けを自ら手放してしまう場合もあるのです

ヨハネの黙示録22章13節には
神であるイエスご自身の事を
「わたしはアルパであり、オメガである
最初の者であり、最後の者である
初めであり、終わりである」

と記されているように
すべてのことはイエス・キリストによって導かれ
その守りのうちにわたしたちは生かされているということ
見えないところで神は働き、助けて下さっているのに
それを自分の誉れにしてはいないでしょうか

「生きているのは、もはや、わたしではない
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである
しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは
わたしを愛し
わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって
生きているのである」
(ガラテヤ人への手紙2章20節)


自分の力ではなく、神の導きで生かされていることを知る
これは「本当に重要な事」です
更には
聖霊をその身にいただいているということは
もはやわたしが生きているのではなく
神が生きておられるということも・・

そのようにわたしたちの身が、神に用いられる器とされたからには
神のおられる場所(教会)にあって心が整えられ
いよいよ磨かれていかなくてはなりません

各々がどんな器であるのか
その役割は人にはわかりませんが
それぞれにふさわしい道に導き
器にふさわしい証を立てて下さるのは神です

世の中の人は
ひとりで悩み、ひとりで戦いつつ
世の中に何か命(救い)を探そうにも、それはどこにも見つけることはできません
昨今では
まあいいじゃないか・・というあいまいな許しの感覚もなくなってきており
みんなの心にゆとりがなく
ゴメンナサイを言って許し合うことも難しくなっています

神のために捕えられたパウロは
不自由な状況に置かれても心弱らず
神と同じ愛の心をもって人々を思いやり
神の栄光が表れるように考え、行動していきました

都合の良いことも悪いことも受けいれていくのが「従う」ということです
その時
万事を益となるようにして下さるとの約束ですから
どんな時もそれを信じ、希望を持って歩んでいきましょう

教会というところには
スーパースターはいりません
神以外に特別な存在はなく
クリスチャンはそれぞれがみな必要な存在で
それぞれの器としての役割があり
その良心によって教会は支えられているものです

教会が整えられて成長するために重要なポイントをおさえ
環境の良し悪しに左右されない
本当に恵まれた平安な日々を送っていくことができますように



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