今週のみことば
1月11日
「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは
あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に
それを人間の言葉としてではなく
神の言として(事実そのとおりであるが)受け入れてくれたことである
そして、この神の言は
信じるあなたがたのうちに働いているのである」
(テサロニケ人への第一の手紙2章13節)
テサロニケの人々は、迫害を受けつつも
パウロたちが伝えたイエスの福音を信じ続けていました
それはパウロたちの言葉を人間の言葉としてではなく
神の言葉として受け入れていたからでした
ここはとても大切なところです
なぜなら、この”信じる=信仰をもつ”ことによってこそ
神の働きが現れるからです
反対に言えば
信じていなければ神の働きもなく
そこには神の証が伴いません
そして
もし神の言葉が成就しないのであれば
人々は一体何のために教会へ行くというのでしょうか
テサロニケの人々のために福音を伝えてきたパウロについて
自分がほめられるためでもなく
ましてや彼らから何かをむさぼるためでもなく
ただ親が子どもを愛するように慈しみ育てようとしたのだということを
テサロニケの人々がきちんと理解している事をパウロは大変喜びました
ついこの前までイエスを迫害する立場であったパウロのことを
本来ならばなかなか人は信用しようとは思わないでしょう
しかし、イエスによって捕えられ、目覚めたパウロが
今度は懸命に「キリストに習う者」として
人々の幸いのために尽力した姿は
やがて人々にパウロの回心が本物であることを教えます
こうしてテサロニケの人に対し
キリストを信じ、その心に習う者として歩むように
パウロは自らが見本となっていきました
「わたしがキリストにならう者であるように
あなたがたもわたしにならう者となりなさい」
(コリント人への第一の手紙11章1節)
パウロは自分に与えられた使命を一生懸命果そうと努力しますが
そこには多くの迫害がありました
その命をかけた戦いは
キリストが十字架に従った姿を見本としたもので
このように自分に与えられた道に従うことができたのは
ただ信仰によるものです
わたしたちもまた
自分の理想とはかけ離れたこと
不都合なことや、できそうにない嫌なことを体験させられることがありますが
そんな時も
各々に与えられた問題を冷静に受け止め
自分のすべき事は何かを考え
祈って知恵と力を与えられることが大切です
こうして
希望を失わず、先の展開を神に任せていく時に
思いがけないことが起こる経験をすると
本当に神は生きて働いて下さる事を実感するでしょう
どんな人にも人生の戦いはあります
それを自分の力や頑張りだけではなかなか乗り越えることはできません
聖書の中には多くの奇跡が記されていますが
奇跡が行われた人々に共通しているのは
みな「イエスを信じた」ということ
何も特別に難しいことをしたわけでもなく
ただ「信じる」だけのことですが
素直に信じることができるかどうか
それぞれに任せられた課題です
「そこから進んで行かれると、ふたりの盲人が
『ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい』と叫びながら、イエスについてきた
そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので
彼らに『わたしにそれができると信じるか』と言われた
彼らは言った『主よ、信じます』
そこで、イエスは彼らの目にさわって言われた
『あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように』
すると彼らの目が開かれた」
(マタイによる福音書9章27-30節)
助けを求めてイエスのもとに来たふたりの盲人は
叫びながらついてきた時点ですでに信じていたのでしょう
彼らには他に希望はなく、ただイエスの救いに自分の人生をかけていました
その強い思いが信仰であり
何か難しい修行や勉強をするわけでもなく
彼らは奇跡を体験しました
一方、イエスの弟子であるトマスは
イエスの復活を信じていませんでしたから
その姿を見てもまだ信じることができず
十字架の釘の後を見てやっと信じたのでした
「それからトマスに言われた
『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい
手を伸ばしてわたしのわきにさし入れてみなさい』
トマスはイエスに答えて言った『わが主よ、わが神よ』
イエスは彼に言われた
『あなたはわたしを見たので信じたのか
見ないで信ずる者は、さいわいである』」
(ヨハネによる福音書20章27-29節)
「見ないで信ずる」とは
自分の先の人生がどうなるかわからなくても(見ていなくても)
キリストにあれば必ず幸いになると信じる信仰です
そして
わたしたちの心は常に神から見られていて
何を考えているか、何を願っているかもすべて明らかとなり
その信仰の程度もお見通しだということ
それらを心に留めて
自分の弱さと向き合い
ごまかしのない正直な心で助けを求めていきましょう
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて
精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして
心の思いと志とを見分けることができる」
(ヘブル人への手紙4章12節)
信仰は、いかにも熱心そうな上辺ものもではなく
心の問題です
信仰がないといつまでも平安な日々はやってこないので
いくら聖書を読んでも、福音の話を聞いても
せっかくの神の言葉が人生に直接生きてきません
「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである
しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった
それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」
(ヘブル人への手紙4章2節)
テサロニケの人々に対して
パウロは以下のような賛辞を送りました
これは、彼らの心が本当に神の言葉を求め
従おうとしている事がわかったからです
「あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである」
(テサロニケ人への第一の手紙2章20節)
彼らはパウロたちを
モノやお世辞で人間的に喜ばせるのではなく
心からのキリストへの堅い信仰心によって喜ばせました
彼らの信仰は
どんな迫害や試練にも屈せず希望を捨てず
神の言葉をしっかり保って、平安を得ている姿によって明らかでした
”人を喜ばせるのではなく、神を喜ばせる”
彼らはその教えに従ってクリスチャンの模範となっていったのです
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