今週のみことば
11月22日
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの
よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について
〜このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て
そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである
この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである〜
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる
それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである
わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである
これを書き送るのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである」
(ヨハネの第一の手紙1章1-4節)
ここに記されている「いのちの言葉」とは
唯一の神であるイエス・キリストをさしています
神は天地が創造される前の「初めからあったもの」ですが
その神が肉体を持ってこの世に来られたイエスは
弟子であるヨハネ達にとっては
話を聞き、実際に目で見て、しばしば触れてきた方でした
「神=言葉」であることについては
ヨハネによる福音書1章にも知るしてあります
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった
この言は初めに神と共にあった
すべてのものは、これによってできた
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった
この言に命があった
そしてこの命は人の光であった
光はやみの中に輝いている
そして、やみはこれに勝たなかった」(1-5節)
この「いのちの言葉」であるイエスに実際に出会い、救われた弟子たちは
イエスが十字架にかけられて復活し、その後に昇天されて以降
イエスこそが「永遠のいのち」であって、目に見えない神でありながら
目に見える存在となって来られたのだと、周りに告げ知らせてきました
それは、イエスを知らない人々が
ヨハネ達と同じく、「神との交わり」にあずかるようになるためです
「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである
神は光であって、神には少しの暗いところもない
神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら
わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない
しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば
わたしたちは互いに交わりを持ち
そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである
もし、罪がないと言うなら、それは自分をあざむくことであって
真理はわたしたちのうちにない
もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば
神は真実で正しい方であるから、その罪を許し
すべての不義からわたしたちをきよめて下さる
もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって
神の言はわたしたちのうちにない」
(ヨハネの第一の手紙1章5-10節)
神と共に歩む人生は、「光の中を歩く」人生、すなわち
「正しい道」を歩んでいるということですから
もし「神との交わり」にあずかっていると言いつつ
欲に惑わされた道(闇の中)を歩んでいるなら
その人はウソをついており、真理をおこなっていない人です
また、「神との交わり」にあずかるためには「救い」にあずかること
つまり、イエスの血による罪の許し(洗礼のバプテスマ)を受けることが重要です
人はみな生まれながらに罪を持っているので
自分には罪がないと言うのなら
神の言葉はわたしたちの内にはなく
神との交わりにあずかる者でもないからです
律法によれば
「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」
(ヘブル人への手紙9章22節)
と記されているように
かつてはそのために動物の血が注がれていましたが
「もし、やぎや雄牛の血や牝牛の灰が、汚れた人たちの上にまきまけられて
肉体をきよめ聖別するとすれば
永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は
なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き
生ける神に仕える者としないであろうか」(13-14節)
というわけで
今はイエスの名による洗礼によって
人はきよめられていくようになりました
こうして、神の愛によって与えられた救いにあずかったクリスチャンは
今この目を持ってイエスの姿を見ることはなくても
聖書を通して触れていくことができ
更には、自分の身に起こる証を通して
命の源であるイエスを内に持っているのだと確認できます
その実感を大切にして日々歩んでいくなら
どんな人生も恐れはありません
人はそれぞれ背負う十字架(試練)があって
決して自分の思い通りに生きられるわけではなくても
与えられた道を受け入れ、神と共に歩んでいくことこそ
「光の中」を歩む信仰者の生き方です
自分の思うようにいかないことに腹を立て
めちゃくちゃな生き方をするのは
「闇の中」にいるのと同じことですから
すべてのことに愛を持って接して下さる神に習う者となって
ひとりひとり成長していくことができますように
<目次