今週のみことば
11月29日
「わたしの子たちよ。これらのことを書き送るのは
あなたがたが罪を犯さないようになるためである
もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主
すなわち、義なるイエス・キリストがおられる
彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である
ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである
もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば
それによって彼を知っていることを悟るのである
『彼を知っている』と言いながら、その戒めを守らない者は
偽り者であって、真理はその人のうちにない
しかし、彼の御言を守る者があれば
その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである
それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである
『彼におる』と言う者は
彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」
(ヨハネの第一の手紙2章1-6節)
天地創造の神が肉体を持って生れ
全人類の罪をつぐなう「あがないの供え物」となってくださったことで
わたしたちはその十字架上で流した血にあずかる洗礼を受けて
救われることになりました
こうして、イエスの名による洗礼を受け、罪をゆるされたのですから
もう罪を犯さないように生きることを求められ
「助け主」として聖霊が与えられています
「もしあなたがたがわたしを愛するならば
わたしのいましめを守るべきである
わたしは父にお願いしよう
そうすれば、父は別に助け主を送って
いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう
それは真理の御霊である」
(ヨハネによる福音書14章15-17節)
しかし、もしわたしたちが”キリストを知っている”と言いながら
「その戒め」を守らないのなら
その人の内側には真理=神がいない、つまり平安がない事になりますが
つまりイエスの御言葉に従って歩む者には
その内側に神の働きがあって
神に愛されている事を実感できるのです
そういうわけですから
「『彼におる』と言う者」=クリスチャンは
イエスご自身の歩みを、手本として生きて行かなくてはなりません
「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように
わたしは手本を示したのだ」
(ヨハネによる福音書13章15節)
その歩み方の具体的な「手本」は以下の通りで
”自分の思い”ではなく、”神のご計画”に従うべきことを示しています
「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け
御足のあとを踏み従うようにと、模範を残されたのである
キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった
ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、脅かすことをせず
正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた
さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために
十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた
その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」
(ペテロの第一の手紙2章21-24節)
わたしたちが”神から来るもの”について
自分の感覚でその良し悪しを決めていくのは
自分の心が第一になっているからで
その場合、自分が思い描く人生でなければ
神に愛がないように思えるかもしれません
しかし、各々が神より与えられた使命や様々な問題について
それらを受け入れて、背負っていくこと
その時にはひとりではなく神と共にあるのだという希望を持って行くこと
それが
「『彼におる』と言う者」に求められる生き方です
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい
あなたがたを休ませてあげよう
わたしは柔和でこころのへりくだった者であるから
わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい
そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」
(マタイによる福音書11章28-30節)
人生には思うようにいかないことがたくさんありますが
どのような所に置かれても
神を愛し、その道に従って自分のなすべきことを成していく時に
そこには人の思いを越えた不思議なことが起こり
自分の力で苦労して乗り越えるのではなく
神の助けがあることを実感することができるでしょう
このように
イエスご自身が自ら示して下さった歩みに習うことで
わたしたちはこの地上においても「天国」を味わうことができるのです
だからこそ、何があっても希望を失わず
開かれた道に歩み
いかに神から愛されているかを思い
その愛を人生の土台として進んでいきましょう
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない
岩を土台としているからである」
(マタイによる福音書7章24-25節)
<目次