今週のみことば


12月27日


「兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない
わたしたちは、兄弟を愛しているので
死からいのちへ移ってきたことを、知っている
愛さない者は、死のうちにとどまっている
あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり
人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない
主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった
それによって、わたしたちは愛ということを知った
それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである
世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には
どうして神の愛が、彼のうちにあろうか
子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく
行いと真実とをもって愛し合おうではないか
それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる
そして、神のみ前に心を安んじていよう
なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても
神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである
愛する者たちよ。
もし心に責められるようなことがなければ
わたしたちは神に対して確信を持つことができる
そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである
それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである
その戒めというのは
神の子イエス・キリストの御名を信じ
わたしたちに命じられたように、互いに愛し合うべきことである
神の戒めを守る人は、神におり、神もまたその人にいます
そして、神がわたしたちのうちにいますことは
神がわたしたちに賜った御霊によって知るのである」
(ヨハネの第一の手紙3章13-24節)

この3章は、まず初めに
わたしたちがどれほど神より愛されているかということと
その愛によって救われている者は
”愛を持った生き方”をすべきであると教えています

今までにも何度も記してきたように
イエスと共に歩むとは、愛を持って生きることで
人生にあっての考え方やものの見方に、愛を加える事が重要です

世の中にあっては
多くの人がお互いを比べて、嫉妬し、あるいは人をバカにして
その心は荒んだ状態になっていますが
自分の置かれた立場によって
上手く行けば傲慢になり
そうでなければ、自分はどうせつまらない人間・・と卑屈になるのでは
そこにサタンが働きやすくなるため
いよいよ心は貧しくなってしまいます

このように、世の中にはいろいろな人がいるとしても
キリストの愛によって救われた者は
「死からいのちへ移ってきた」者ですから
サタンの働きやすい思考から離れて
「互いに愛し合うべきこと」を中心に
むやみに比べず、争わないように心がけましょう

自分が救われていることで偉そうになり、他を迫害したのでは
どうしてそこに神の愛があるでしょうか
そもそもわたしたちは
自分の修行や功績ではなく
神の”無償の愛”によって救われました
それによって「死からいのちへ移ってきた」というのですから
いつまでもサタンに属するような考え方をしていていいはずがありません
もし自分が救われていることを証明したいなら
競い合うことによってではなく
その愛に習う生き方によって現すべきでしょう
それができないとすれば
「愛さない者は、死のうちにとどまっている」
ということになるのです

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった
それによって、わたしたちは愛ということを知った
それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」


ここは非常に重要な「戒め」であり
ヨハネによる福音書15章12-13節にも以下のように記されています
「わたしのいましめは、これである
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」


自分の命を犠牲にして人を救えるのは神だけです
そして、わたしたちに求められている愛は一方的なものではなく
「互いに愛し合いなさい」ということですから
ここは一方的に誰かの犠牲になればいいという意味ではありません
重要なのは
その考え方や行いに愛があるかどうかということです

例えば、子どもを叱る時にも
愛をもってすれば正しい教育になりますが
怒りの感情のまま行動すると殺してしまうことにもなりかねないことは
昨今のニュースなどでも明らかです

ヨハネの第一の手紙2章に
”古い戒め”と"新しい戒め”について記されていたように
内容は同じ戒めでも
前者は文字通りの戒めで、守らなければ罰がありました
一方
後者はそこに愛があり、許しがあることに大きな違いがあります

神が人となってこの世に来られるまでは
神の霊(聖霊)は時に応じて人に臨んで必要なことを教えてきましたが
今や、聖霊は人のうちに住んで
正しい道へと導いて下さるようになりました

こうしてわたしたちは
それまでの考え方や荒んだ心が変えられるように
”神の愛を基本として物事を進める生き方”を教えられ
本当の愛とは何であるかを行動で示すべく救われたのです

ですから
考え方が合わない人に対しても
自分の正しさを主張して
相手を徹底的にやりこめるようなことはしません
それが
「兄弟のためにいのちを捨てる」ことだからです
そして
「言葉や口先だけで愛するのではなく
行いと真実とをもって愛し合おう」
とあるように
それは、きれいごとで終わることなく
小さな事から日常的に行動に移してこそ意味のあるものです

また
「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には
どうして神の愛が、彼のうちにあろうか」

と記されているように
人は救いを受けても、なお欲に惑わされ
自分さえよければ・・・と強欲になりがちですから
聖書のみことばを常に心に留めておくことが大切です

「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい
たといたくさんの物を持っていても
人のいのちは、持ち物にはよらないのである」
(ルカによる福音書12章15節)


「あわれみの心」は神の心ですが
貪欲になるほど人は神の心から離れて行ってしまいます
せっかく救われて、死から命へと移ってきたはずなのに
また死へと戻っていくことがありませんようにと願うものの
人は弱いので
「わたしたちの心に責められるようなこと」もあるかもしれません
それでも寛大な神は許して下さるわけですから
その愛に習ってわたしたちも人を許していけるように
「あわれみの心」を持つことを心がけていきましょう

ピリピ人への手紙3章17節において
パウロは
「兄弟たちよ。どうか、わたしにならう者となってほしい
また、あなたがたの模範にされているわたしたちにならって歩く人たちに目をとめなさい」

と、記しています
彼が具体的にどのように歩んでいるかについては
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」(4章11節)
と、あるように
貧しくても豊かでも、病気でも健康でも
卑屈にならず希望を失わず
あるいは傲慢になって神を見失い
愛のない生き方をしないように
どんな時にも正しく幸いに生きる秘訣を得ていました
それは
彼が真理(=神)を知っていたからであり
救いを受けて”神に在る”というわたしたちもまた
同様に生きる秘訣を得ているはずなのです

自分が思うようにいかないことを環境のせいにして逃げたり
何があってもケチをつけるような
”うるさい人間”にならないように気をつけて
「神の子イエス・キリストの御名を信じ
わたしたちに命じられたように、互いに愛し合うべきこと」

この戒めとともに
これらを守るために聖霊が内にあって働いて下さることも心に留めて
来年も
ひとりひとりが悔いのない人生を送るべく
成長することができますように



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