今週のみことば
1月25日
「兄弟たちよ、眠っている人々については、無知でいてもらいたくない
望みを持たない外の人々のように
あなたがたが悲しむことのないためである
わたしたちが信じているように
イエスが死んで復活されたからには
同様に神はイエスにあって眠っている人々をも
イエスと一緒に導きだして下さるであろう
わたしたちは、主の言葉によって言うが
生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが
眠った人々より先になることは、決してないであろう
すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに
合図の声で、天から下ってこられる
その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり
それから生き残っているわたしたちが
彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い
こうして、いつも主と共にいるであろう
だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい」
(テサロニケ人への第一の手紙4章13-18節)
ここでパウロは
眠っている(亡くなった)人々のことについて
いずれイエスがもう一度この世に来られる「再臨」の時には
「イエスにある死人」がまずよみがえり
その次に生き残っている者が共に引き上げられて
それからはみな一緒にいつまでもイエスと共にいるのだから
そこに望みをおいて、嘆き悲しまないようにと語っています
「イエスの復活」を信じない人からすれば
夢物語のような話ではありますが
クリスチャンにとって、イエスの復活は大きな希望です
この希望があれば
死は決して不幸なことではなく
いずれ神の時が来れば天に召されていき
その先でまた懐かしい人々と会うのだと確信し
今生きている間も平安で
また、先に逝った人々のことを嘆かずにすむのです
しかし、反対に
もし「イエスの復活」を信じないとすれば
すなわちイエスご自身を神として信じる信仰がなければ
わたしたちに希望はなく
力を与えられることもないでしょう
結局、一番大切なのは「信仰」なのです
そして、それを伝えようと一生懸命なパウロは
自分が伝えている福音は決して人間から出たものではないと強調しています
「兄弟たちよ、あなたがたに、はっきり言っておく
わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない
わたしは、それを人間から受けたのでも教えられたのでもなく
ただイエス・キリストの啓示によったのである」
(ガラテヤ人への手紙1章11-12節)
「啓示」とは、神が人にわかるように真理を教えて下さる事で
パウロは直接キリストによる教えを受けたため
そこに絶対の確信を持っていたのでした
というのも、彼は元はユダヤ教に熱心で「律法」の行いを重要視し
「修行」のような信仰生活を送っていた人です
それがある日突然イエスに直接捕えられることで
イエスご自身は神であることを確信しました
その「信仰」こそが彼のその後のすべてとなり
「修行」と「信仰」は別物であることを提言していくのです
「からだの訓練は少しは益するところがあるが
信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので
万事に益となる」
(テモテへの第一の手紙4章8節)
「からだの訓練」すなわち「修行」は
少しは益になるとしても
それが救いにつながるわけではありません
これに対して「信仰」は
今この世で生きている間、試練の中に置かれても
人に希望を与えて前向きに生かし
更には
死んだ後のいのちについても約束されているので
すべてのことについて益となるのです
「修行」を重視する人は
信仰歴が何十年とか
自分が熱心に教会で何をしたかを重要視しますが
パウロを見ていると
キリスト教に目覚めてからの時間(信仰歴)よりも
キリストを信じる熱心さ(信仰)が重要であることがわかります
パウロ自身が語っているように
彼は自分がやってきたことをふりかえると
イエスを信じる人を迫害してきたのですから
とても誇れるものではありません
彼にとっては「信仰」がすべてであり
神の救いに修行も信仰歴も関係ない事を
パウロ自身がその歩みを通して実証したのです
同じ聖書を読んでも
世の中の思想で目がおおわれていれば
真理を悟ることはできません
ところが、その目をおおっていたものが取り去られれば
神がどういう方であるかがわかってきます
そのため重要なのは
「修行」ではなく「信仰」です
というのも
「修行」を熱心にすると、自分が頑張っている事に満足し
かえって「信仰」がわからなくなってしまうのです
また、「修行」は辛く、楽しくありません
せっかくキリストによる救いを受けても
実生活が平安の無い日々ではもったいない
「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに
あなたがたの中のある者が
死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか
もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう
もしキリストがよみがえらなかったとしたら
わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」
(コリント人への第一の手紙15章12-14節)
ここを読む時に
もし「イエスの復活」を信じる信仰がなければ
わたしたちの信仰は本物ではないことがわかります
「イエスの復活」はあった
そして、そのよみがえったイエスを信じる信仰こそがクリスチャンの支えです
もし復活がなかったのなら
クリスチャンはとても空しいものを信じている事になります
それを19節には以下のように記しています
「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって
単なる望みをいだいているだけだとすれば
わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」
しかし
イエスの復活を信じる「信仰」を持つクリスチャンは
困った時も、辛い時も
その状況を受け入れて
決して希望を失わず前向きに生きていく力を得ていきます
これが「神に従う」者の姿であり
その「信仰」により神の助けが与えられ
神の働きというものを見ることができるのです
そして、それを感謝することでいよいよ信仰が増していくでしょう
このように
どんな時にも神への感謝を忘れず、希望を失わない人が
常にイエスに仕え、従っている人です
「もしわたしに仕えようとする人があれば
その人はわたしに従って来るがよい
そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう
もしわたしに仕えようとする人があれば
その人を父は重んじて下さるであろう」
(ヨハネによる福音書12章26節)
人は皆それぞれ自分の理想を持ち
その思い通りの人生が開けていくことを望みます
そのため、神のみ旨の道が別のところにある時には
思い通りにならない現実に失望し腹を立てることもあるでしょう
しかし、「従う」とは
その起きてきた現実を受け入れることで
そのために必要なのは神への絶対的な信頼「信仰」です
それはちょうどオーケストラが指揮者に従うようなもの
演奏家が自分勝手にやっていたのでは美しいハーモニーは生まれません
曲の解釈は各々違うものをもっているでしょうが
まずは指揮者の解釈に従うのが重要です
自分の思いはさておいて指揮者に従う
それは指揮者を信頼していないとできないことでしょう
わたしたちの人生が輝くかどうかは
指揮者である神に従うかどうかにかかっています
何しろ神が人を造ったのですから
その人が何を持っていて、どう生きれば幸いなのかは
神がいちばんよくご存じだからです
あとはわたしたちがそれを信頼できるかどうか
すべては「信仰」にかかっているのです
決して「修行」によって幸いを得ようとするのではなく
「信仰」によって神のみ旨の道を歩む
そこに目覚めて進んでいきましょう
<目次