今週のみことば


2月15日


「兄弟たちよ、わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない
またそうするのが当然である
それは、あなたがたの信仰が大いに成長し
あなたがたひとりびとりの愛が、お互いの間に増し加わっているからである
そのため、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けている
あらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき
神の諸教会に対してあなたがたを誇りとしている
これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを
証拠だてるものである
その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである
すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い
悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが
神にとって正しいことだからである」
(テサロニケ人への第二の手紙1章3-6節)

イエスの名によるバプテスマを受けて救われた者であっても
昔も現在も、各々が問題を抱え、悩みの中に生きている現実があります
救われてもなおそのような苦しみの中に置かれるのは
わたしたちがその問題を通して
神の助けを求め、いよいよ信仰が増し
その間にひとりひとりの心が成長して
神の国にふさわしい者となっていくためですが
その苦しみの中にあっても
神を求める者には適切な助けと平安を与えて下さるのです

このように
悩みや苦しみの中を
神に望みを置き、神と共に通り過ぎて行こうとして
ぐずぐず思わず、前を向いて歩むテサロニケの教会の人々の姿を
パウロは誇りに思うと記しました
なぜなら
このような姿になることこそ
神の国にふさわしい者として選ばれたことが正しかったという証拠になるからです

やがて
キリストの再臨の時になれば
そのことがすべて証明されることになりますが
この世に生きている現時点においては
わたしたちひとりひとり、与えられた問題にどのように取り組んでいくのか
その姿勢(信仰)が問われていると言えるでしょう

当教会にあっても
このところ信者方の上にさまざまな困難(問題)があり
けがで入院する人や、大きな病気に見舞われる人など
ともすれば心弱るような出来事が起きています
ところが、多くの人が
自分の問題に対して嘆かず、心弱らず
問題が起こる事でかえって自分の力を教えられ
ある人は、入院生活を「休息」といって楽しみ
ある人は、問題を通して家族が団結し
お互いの間で新たな思いやりが生じています
更には、そこでみんな「感謝」という言葉を口にし
それらが決して格好で言っているのではないこともわかるのです

そのような心境になるには
神から与えられる平安が必須であり
また、ひとりひとりが神に希望をおいているからこそ
どんな状況も受け入れていけるように
だんだん信仰が成長しているのでしょう

しかし、同じようにイエスの名によって救われたクリスチャンであっても
自分の思いどおりに物事が進まなければ嘆き
腹を立てる人も少なからずあるでしょうし
熱心に信仰信仰と言っていても、心の中はなかなか成長しない、、
そんなケースの方が案外多いかもしれないと思う時
パウロがテサロニケの教会の人々に対して思ったのと同じように
当教会においても、信者方が
「誇りに思う」ような状況にあることを本当にうれしく思います

一般的に見て
とても幸せな(恵まれた)状況にある人でも
本人の考え方によっては、そこに恵みを感じることも
「感謝」という気持ちがわいてくることもないでしょう
ましてや、病床にあってどう思うのか
置かれたところ(境遇)でどう感じるのか
そこに神に対する希望を見いだすのかどうか
それは各々の信仰によって分かれるところです

なぜなら
この世には「人を惑わす霊」の存在があって
神を認めない(信じない)人々は
そういう惑わしの霊に惑わされて
自ら絶望していくからです

「さて、兄弟たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの来臨と
わたしたちがみもとに集められることについて、あなたがたにお願いすることがある
霊により、あるいは言葉により
あるいはわたしたちから出たという手紙によって
主の日はすでにきたとふれまわる者があっても
すぐさまこころを動かされたり、あわてたりしてはいけない
だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない
まず背教のことが起こり、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるに違いない
彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ちあがり
自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する」

(テサロニケ人への第二の手紙2章1-4節)

「主の日」つまりキリストの再臨の日については
聖書によれば誰にも知らされません
ところが、自分が知っているとウソをついて
人々をだます者が、昔も今も世界中に現れています

こういうデマには
本当に神を信じている人なら、聖書を信じているのでだまされませんが
信仰があやふやだと
たちまち取り込まれてしまうかもしれません

このように
「偽キリスト」や「偽預言者」の霊は、すでにこの世に働いていて
多くの人が惑わされていく中
イエスの名によるバプテスマ(十字架の救い)を受けたクリスチャンは
神に対して不信をもたず
信仰を保っていくなら
悪霊によってダメージを与えられることはありません

しかし
真理(=神)を愛さないで、不義を喜ぶ人々については
惑わす力が送られて
彼らは偽りを信じるようになり、滅びていくのだと記されています

神を愛する人(信じる人)と、そうでない人については
コリント人への第一の手紙1章18節に
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが
救いにあずかるわたしたちには、神の力である」

とあるように
この両者は全く価値観が違い
滅び行く人は人の力に頼り
十字架の言=聖書の教えを、愚かだと思っています

しかし
この世の「賢者」と呼ばれる人であっても
神の事はわかりません
また、自分の賢さを誇る人は、やがてその無力さを教えられ
神の言葉に人間は対抗できないことを知るでしょう

31節に
「誇る者は主を誇れ」と記されているように
わたしたちは自分を過信することなく
真理の道を歩むために
何が正しいのかを神より教えられる必要があります

だからこそ、問題が起きた時、窮地に立たされた時には
自分の力や知恵に頼らず
神に希望をおくことで平安を与えられ
冷静な対処をしていくことができれば幸いです

テサロニケ人への第二の手紙の最後は
パウロ自身がクリスチャンの模範となるように
自分にできる仕事をしながら
決して怠惰な生活を送らなかったことが記されています
『働きたくない者は、食べることもしてはならない』
彼はそのように命じて
ひとりひとりが自分に与えられた仕事(使命・役割)に忠実に従い
良心的に生きるように勧めています

キリストに習う歩みを心がけるパウロの生き方を通して
わたしたちもその生き方に学び
いかなる問題がおきても
神による平安と慰めと希望を与えられて
幸いな日々を送っていくことができますように



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