今週のみことば
4月12日
「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて
それに次の句が証印として、しるされている
『主は自分の者たちを知る』
また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』
大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり
そして、ある者は尊いことに用いられ
ある者は卑しいことに用いられる
もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら
彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり
すべての良いわざに間に合うようになる」
(テモテへの第二の手紙2章19-21節)
イエスの名による救いを受けたクリスチャンは「キリストのもの」であり
その人生の土台は常に神にあります
クリスチャンを名乗りつつも
神の定めた「正しさ」を理解し、受け入れようとしないなら
その生き方は自己流のままで
本当に正しい方向へとは向いていきません
ここでは、金や銀、木や土といった素材の器が
さまざまな資質を持った人間の例えとして語られていますが
重要なのは、わたしが金の器なのか土の器なのかではなく
(そもそもそれを決めるのは神の領域)
各々が「尊いきよめられた器」として用いられているかどうかです
22節以降には
義(神の正しさ)と、信仰と愛と平和を追い求め
愚かな議論をしないようにと戒めており
「主の僕たる者は争ってはならない」と記されています
人は議論して負けそうになるとプライドが傷つき
そこから怒りが増幅し
違う争点が現れて、最初の目的も忘れ
ただ言い争いにふけり
やがて本当に大切な真理から外れていくのです
「神の家というのは、生ける神の教会のことであって
それは真理の柱、真理の基礎なのである」
(テモテへの第一の手紙3章15節)
聖霊を内側に頂いているクリスチャンは
神を自分の中に持っているのですから
自分自身が神の家でもあります
その神の家が、柱も基礎も真理(=神)でできていれば
どんな議論が起きても無駄に巻き込まれることはありませんし
世の中にウソの情報が流れても動揺せず
あわてないで行動できるでしょう
また、各々が集うべく置かれた教会も
真理の柱と基礎で構成された神の家
そこには、神からの知恵があり
人々を正しく導く場所となるべきのです
しかし
せっかく聖霊を頂いていても
その心に自分の考えしかなく
自分の都合だけを優先させようとすると
そこにはいつも問題が起きてきます
例えば、天候異変などで交通機関が乱れた際
駅員さんに怒鳴ってみても何の意味もないばかりか
こういう類の人が場を混乱させるわけです
そんな騒ぐ人にならないために
「主の僕たる者は争ってはならない」(24節)とのみことばを心において
どんな時も落ち着いた行動を心がけたいものです
その人がどんな素材の器であっても
尊く用いられるために必要なのは
義(神の正しさ)と、信仰と愛と平和を追い求めること
”用いられる”といっても、決して人にゴマをするという意味ではなく
それぞれに与えられた立場が生かされ、役に立ち
それが神から喜ばれるということです
器の質の違いはあれど
人間として造られた時に与えられた神の心や性質(愛)をしっかり保ち
いわゆる”懐の深い”人として
トラブルを起こさない、落ち着いた歩みをしていきましょう
キリスト教の信仰は「律法」を守ることが重要なのではなく
自分の心が問われるものです
これが「恵みの時代」の信仰であり
見かけが熱心だから信仰があるかと言えば
そうとも限りません
教会にあって”用いられる”というと
何かいつも活躍して目立つ人の事と勘違いしそうになりますが
信仰とは、日々の生活の中に神を見いだす(感じる)事であって
何かの「しきたり」や「行動」を熱心にすることとは違うのです
そういうわけですから
救われて後、その魂が成長するように
心を穏やかに整えていきましょう
仮に周りに敵対する人がいたとしても
議論を避けること心がけ、気持ちを切り替えながら過ごす時
そこに神は働いて下さり
いつか敵対する者に悔い改めの心を与えると
テモテへの第二の手紙2章の終わりには記されています
もし、わたしたちの穏やかな日常を見て
心が変わっていく人があるとすれば
それはわたしたちが立派なのではなく
神によって装われているということ
そして、それこそが神に用いられているということです
「陶器を造る者は、同じ土くれから
一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」
(ローマ人への手紙9章21節)
陶器を造る職人のように
神は人をそれぞれ自由に創造し用います
わたしたち人間はあくまで造られる側ですから
その立ち位置を知り、いらいらせず
やたらと自己主張ばかりして争うことがありませんように
神の知恵を与えられて物事に対処し
尊く用いられる者となっていきたいものです
<目次