今週のみことば
4月19日
「いったいキリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は
みな、迫害を受ける
悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて
悪から悪へと落ちていく
しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに
いつもとどまっていなさい
あなたはそれをだれから学んだか知っており
また幼い時から、聖書に親しみ
それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を
あなたに与えうる書物であることを知っている
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって
人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である
それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて
完全にととのえられた者になるのである」
(テモテへの第二の手紙3章12-17節)
洗礼を受けたクリスチャンであっても
その時点ではまだ「完全にととのえられた者」ではないため
”キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者”として歩むわけですが
そこにはさまざまな迫害があります
聖書を通じて、本当の正しさの基準を学ぶことにより
その教えを心の糧として生きていこうとしても
世の中には多くの惑わしがあり
信仰についてしっかりとした確信をつかんでいなければ
いつ惑わしに陥っていくかわかりません
「しかし、終りの時には困難な時期が来ることを悟りなさい
そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり
神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります
また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり
善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思いあがり、神よりも快楽を愛し
信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります
こういう人々を避けなさい」
(テモテへの第二の手紙3章1-5節)
ここには
人間の中の悪い姿がことごとく並べられています
そして、誰もが自らこういう者になる危険性をもち
あるいは、このような人々に影響(迫害)を受ける可能性を秘めているのです
一見、信仰熱心に見えても、それは見せかけのもので
”その実、信心の力を否定する”人は
神の本質を知らず、本当の愛を知りません
それは普段の行動にも現れてくるものです
人が良い行いをしようとする時
その愛の判断基準がどこにあるかによって
行動は違ってきます
例えば、泥の中にいるミミズがかわいそうだと言って
きれいに洗い、柔らかい真綿でくるんでも
ミミズは大変迷惑するでしょう
それは、ミミズ(相手)の都合を考えず
自分の考えに沿った自己流の愛を基準にしているため間違うのです
どんなに自分で正しいと信じていることでも
自己流の愛では、相手を幸せにすることもできず
それでも自分は良いことをしたのだと勘違いする
これでは、単に自分を愛している(自己満足)に過ぎず
やがて傲慢になっていく道です
クリスチャンであると自負していても
このような状態に陥っているなら
いくら熱心に教会へ行き、聖書を勉強していても
真理を知るところに至っていないということ
それどころか、真理(=神)に逆らう信仰の失格者であると
8節には記されています
では、信仰の失格者にならないためにどうすればいいのでしょうか
それは以下のみことばによって知ることができます
「あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって
わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい
そして、あなたにゆだねられている尊いものを
わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい」
(テモテへの第二の手紙1章13-14節)
クリスチャンにとって最も大切なことは
神に対する信頼と愛を身につけることと
そのために
人の考えではなく、聖書のみことばを模範とすることです
愛について
コリント人への第一の手紙13章には以下のように記されています
「たといわたしが、人々の言葉や御使いたちの言葉を語っても
もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである
たといまた、わたしに預言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても
また、山を移すほどの強い信仰があっても
もし愛がなければ、わたしは無に等しい
たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても
また、自分のからだを焼かれるために渡しても
もし愛がなければ、いっさいは無益である
愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない
愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない
いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える
愛はいつまでも絶えることがない」(1-8節)
先のミミズの例えのように
人の思う愛と、神の教える本当の愛は違います
人間的な愛はすべてが正しいわけではなく
正義感だけで行動すると、冷静さを失い
かえって周りを混乱させることになるでしょう
一方、キリストの愛があれば
本当に相手のためになること考えることができ
それはすべて正しい行動に現れてきます
”キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者”は
キリストの愛に根ざした立場や考え方を選択する者
そうしていれば
自分を誇ることもなく、惑わしに陥ることもありません
しかし、教会に熱心に集っている人でも
キリストの心(愛)を持たなければ
その行動は間違った方向に向いてしまいます
愛のない教会生活や伝道活動からは
自分自身の誇りが生じ
その結果、他人の迷惑も考えない、傲慢な人になっていくのでは
何のために信仰するのでしょうか
”人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益”なのが聖書で
教会は、各々の間違いを正す場所です
それはちょうど、知らないうちに歪んだ体を治す整体のようなものかもしれません
聖書を通じて正しいことを学んでも
生活習慣によっては、また心の状態も悪くなってしまうため
それを定期的に整える必要があるわけです
長年教会に行っている人であっても
その心に本当のキリストの愛があるかどうか
わたしたちはいつも問われています
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