今週のみことば


5月3日


「わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって
さまざまの情欲と快楽との奴隷になり
悪意とねたみとで日を過ごし
人に憎まれ、互いに憎み合っていた
ところが、わたしたちの救い主なる神の慈悲と博愛とが現れた時
わたしたちの行った義のわざによってではなく
ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け
聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである
この聖霊は、わたしたちの救い主イエス・キリストをとおして
わたしたちの上に豊かに注がれた
これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ
永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである」
(テトスへの手紙3章3-7節)

パウロは、信頼するテトスをクレテに残し
その地の人々に、キリストの救いと健全な教えを広めるべく
人々を正しく導く教会の指導者を立てるよう命じました

クレテの人々は「うそつきで怠け者」であると同時に
ユダヤ人の作り話や、律法にしばられていて
健全な信仰が育っていません
そこで、まず彼らを導く者の条件として
1章には以下のように記されています

「長老は、責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって
その子たちも不品行のうわさをたてられず
親不孝をしない信者でなくてはならない
監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく
わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく
利をむさぼらず、かえって旅人をもてなし
善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり
教えにかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない
それは、彼が健全な教えによって人をさとし
また、反対者の誤りを指摘することができるためである」(6-9節)


指導者には、人にののしるチャンスを与えないためにも
人から認められる人格と品格が必要です

更に2章は
「老人たちには自らを制し、謹厳で、慎み深くし
また、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように勧め・・・」と始まり
一般の老若男女に対しても
信仰者としてのキリストに習う健全な生き方の模範が具体的に記されていますが
このような生き方を実践していくことで
信仰に反対する者が悪口を言う機会を与えず
むしろ彼らが自らを恥じるようにもなっていくのです

しかし、人間は自らの力だけでは健全な生き方に至ることができないため
「すべての人を救う神の恵み」が現れました
これが『洗礼と聖霊とによる救い』です

キリストが十字架にかかり、わたしたちに救いを与えて下さったのは
わたしたちがこの世にあって
さまざまな欲に惑わされず、何が正しいのかを知り
思慮深く、信心深く生活することで
「良いわざに熱心な選びの民」として聖別されるためでした

パウロ自身も、3章で
「わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって・・・」
と語っているように
神の救いは、このような状態の人々に与えられたもの
そして
「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって」
この救いは与えられたのだという点は、大変重要なポイントです

では、なぜ救いの条件として「義のわざ=正しい行い」は問われないのでしょうか

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである
それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である
決して行いによるのではない
それは、だれも誇ることがないためなのである」
(エペソ人への手紙2章8-9節)


この救いは神の一方的な愛と恵みによるものです
決して、人が何か正しい行いをしたからではない
もし仮に「正しい行い」が必要なら
例えば人に施しをするといった善行は、裕福な人が有利であるように
救いの機会は平等ではなくなってしまいます
更には
人の心は弱いので
「正しい行い」によって救いに至った自分を誇るようになるでしょう

もっとも、救われた後は
「正しい行い」を学び、良心的に過ごすのがクリスチャンに望まれることです
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように
キリスト・イエスにあって造られたのである
神はわたしたちが良い行いをして日を過ごすようにと
あらかじめ備えて下さったのである」(同章10-11節)


この信仰にあっては
栄光を受けるべき存在は、人ではなく神であるキリストのみです
人に栄光を帰さないためにも
救いの条件に人の行いは要りません
必要なのはただ信じる「信仰」だけ
信じることならだれでもできることですから
救いのハードルは本来とても低いのです

しかし
生まれかわりの洗い=洗礼と
聖霊を受けて新たにされたなら
そこからは「天国を継ぐ者」とされるのですから
それにふさわしい者に成長するための「教育」が必要になります
この教育の日々が「教会生活」です

この世に生きている限り
救われていようが、いまいが
人間の一生は、思うようにならないことの連続です
それでも
信仰を持って教会生活をする人の幸いなところは
どんな境遇にあっても「希望」を見いだし
更には困った問題に対処する知恵と力と勇気が与えられ
やがて問題解決につながることから
どんな時も「平安」でいられることです

教会生活は
神がどのような方であるのかを知るためにあり
教会で奉仕するから献金するから引き換えに願いがかなえられる
という類のものではありません
救いが神の一方的な愛と恵みによるものであるように
日々の問題解決も
わたしたちの「行い」によるのではなく
神より与えられたチャンスや知恵をいかに受け入れて生かせるか
その信頼(信仰)が問われるのです
もし「行い」が評価されて問題が解決するなら
人は自分を誇るようになるでしょう

テトスへの手紙1章10節には
割礼を受けている人、すなわち、律法を熱心に守っている人の中に
「不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多い」と記されているように
信仰ではなく、目に見える行いに熱心な人は
真理=神がわからず
自分流の正しさを追求して、いよいよ真理から離れ
自分が迷うのみならず、人も惑わし
教会の中を混乱させる可能性があるので注意が必要です

このように
せっかく洗礼と聖霊による救いを受けてクリスチャンになっても
「信仰」が育っていかなければ
その人は「自分の福音」に従っているに過ぎず
神にゆだねることも従うこともわからないまま
他人をも「自分の福音」にあわせるように仕向け
人を支配するようになるかもしれません

あるいは、救いを受け、問題が解決して安心し
やがて教会も神も忘れていく人は
やはり、自分流の生き方を選んでいくことでしょう
その時、心の中には何が入り込んでくるでしょうか

「汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが見つからない
それで、『出てきたわが家に戻ろう』と言う
そして、戻ってみると家は掃除をして、整えられていた
そこで、出かけていき、自分よりも悪い他の七つの霊を連れて来て
中に入り込んで、住みつく
そうなると、その人の後の状態は前より悪くなる」
(ルカによる福音書11章24-26節)


元々、人間の中にはさまざまな欲や悪い感情があり
迷いと不安の中で生きていたところを
キリストの福音に出会って救われることにより
その中にいた汚れた霊は出て行きました
ところが、この汚れた霊は、人のすきをついてまた戻ってくるというのです
しかももっと悪い7つの霊を引き連れて、、、

結局、信仰が育っていない人、つまり
神よりも自分を信頼している人の心の中には
こうして再び汚れた霊が戻ってきて混乱させるので
そのような状態に陥らないためにも
正しい教会生活によって心を整えていくことが重要です

この教会生活において何よりも忘れてはならないのが
神への感謝です
神を求める多くの人は問題を抱えていて
その時は必死で救いを求め、祈っていくわけですが
いつの間にか状況が好転すると
辛い過去の記憶も薄れがちです

それでも、教会生活を続けていれば
感謝を思い出す機会もあり
信仰が整えられるチャンスもあるでしょう
更には
ひとつひとつの感謝の記憶を積み重ねていくことで
やがて神への信頼は確信へと変わり
こうして信仰は本物になっていくのです
信仰が本物になれば、もはや汚れた霊が入り込む余地はありません

大切なのは、日々「神を感じる」こと
神によって救われ、恵みを受けて今の自分があること
今の立場に引き上げて下さった方の存在を決して忘れないことです

この信頼と感謝があれば
どんな問題が起ころうとも
神の知恵と力で乗り越えていくことができるので
潔く、穏やかな生き方ができるのです

各々の問題を根本から解決するための知恵が与えられるのが教会です
個人の願いがかなうことよりもいいことですが
まずは問題の根本解決を神にゆだねていきましょう

世の中には多くの情報があり、その中には間違いや惑わしも多くあります
しかし、聖書の言葉はみな信ずべきもの
どんな人も救いにあずかるチャンスを下さった神を信頼し
今日に至るまでの導きと助けに対する感謝を忘れず
神の教会にあって
導く人も導かれる人も、おのおの心して歩み
共に神の国を継ぐ者としてふさわしく成長することができますように



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