今週のみことば


5月24日


「彼は御子であられたにもかかわらず
さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので
彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となり
神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである
このことについては、言いたいことがたくさんあるが
あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことは難しい
あなたがたは、久し以前からすでに教師となっているはずなのに
もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である
あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている
すべて乳を飲んでいる者は、幼子なのだから
義の言葉を味わうことができない
しかし、堅い食物は
善悪を見分ける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである」
(ヘブル人への手紙5章8-14節)

神が人間の肉体を持って生れてこられたイエスは
神の御子、つまり神でありながら
人間と同じ苦しみを経験し、通るべき定めをすべて通った完全な者となったので
イエスを信じ、従うすべての人の救いの源となり
神によって「大祭司」と呼ばれました

そもそも「大祭司」とは
「すべての人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえをささげるよう
人々のために神に仕える職に任命されています」(1節)


大祭司は人間としての弱さを持つため
無知な人や迷う人を思いやることができるとともに
すべての人間のために
罪のあがない(許し)のための供え物をささげなくてはなりませんでした
そして、神でありながら人間の肉体を持った御子としてのイエスは
十字架にかかり血を流すことで
すべての人の罪が許される救いをこの世にもたらしたのです

「こうしてほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである
血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」
(ヘブル人への手紙9章22節)


律法によれば、ヤギや牛のような動物をささげることで
その血による罪のきよめがなされていたのですから
完全にきよいキリストの血にあずかる時
「なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き
生ける神に仕える者としないであろうか」(14節)


こうして、どのような人であっても、信じる者はキリストの血によってきよめられ(洗礼)
キリストにある者(クリスチャン)として
その後の人生をキリストに習う歩みをするように
聖書のみことばをもって心が整えられていく機会を得るのでした

ところが、これら「救い」に関する一連の話を聞かされても
”耳が鈍くなっている人”には聞くことも理解することもできず
指導者の立場にある者でさえ、基本を理解できていないとパウロは嘆き
聞きやすいことしか聞けない幼子のような信仰のままでは
神の言葉を正しく理解し、実践し、祝福を味わうことができないのだと語っています

わたしは信仰していると言っても
「善悪を見分ける感覚を実際に働かせて訓練された成人」となるべく
実生活の中で、キリストの歩みに習って善悪を判断することを実践(訓練)しなければ
正しい感覚が身につかず、心の成長もありません

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書の中には
わたしたちの見本となるべく人間イエスの歩み方がいろいろ記されています

イエスご自身は神でありながら
自分を王のような立場に置かず
神々しい見栄えも持たず
弱い立場の人を助ける一方で
嫌がらせをする人や侮る人、悪意のある人には
知恵の言葉と潔い行動で対処しています

基本的には、敵と争うことはせず
相手が返答に困るような正しい言葉でトラブルをおさめていますが
マタイによる福音書21章にある「神殿から商人を追い出す」記述のように
神の家に商売を持ちこむことは、はっきりとした態度で戒めています

クリスチャンは自分自身が神殿(神の宮)ですから
本来そこでは神を崇め、祈りをする場所でありながら
実はお金もうけにしか興味がないというのでは
キリストに習う者の歩みとは言えません

この世に生きている限り
キリストと共に歩もうとするクリスチャンにも
サタンの惑わしは臨んでくるので
その時、神の言葉を思い出し、その言葉に従うように歩むのが幸いです

せっかく「救い」を受けて
自分の人生に神を取り込んだのなら
その信仰が神に喜ばれる本物になるように
みことばを通してキリストの歩みに習う者となっていきましょう



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