今週のみことば


5月31日


「そういうわけだから、わたしたちは、キリスト教の初歩をあとにして
完成を目指して進もうではないか
今さら、死んだ行いの悔い改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手
死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか
神の許しを得て、そういうことにしよう
いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり
また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが
そののち堕落した場合には
またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから
ふたたび悔い改めにたち帰ることは不可能である
たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで
耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる
しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり
やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう」
(ヘブル人への手紙6章1-8節)

ヘブル人の教会においては、ユダヤ教からキリスト教に改宗したものの
人々の心がゆらぎ、完全にユダヤ教を断ち切れず
再びユダヤ教へ戻ろうとする動きもあったようです
そんな彼ら対して、いつまでもキリスト教の初歩を教えていたのではきりがなく
本当にその心が完全にキリストに向くように
もっと信仰の完成を目指して進むべきことをここでは教えています

天からの恵みにより、洗礼と聖霊のバプテスマを受けてクリスチャンになっても
すぐに完全な信仰者になるわけではありません
もしそうなれるとすれば
さまざまな試練にあっても、信仰によりすべてのことを平安に過ごせるでしょう
しかし、現実にはクリスチャンであっても常に不安と恐れに悩まされ
そのたびに自分の弱さを思い知らされるものです

キリスト教の初歩を知ることはもちろん重要ですが
いつまでもそこにとどまるのではなく
神より各々に与えられた道を知り、そこを信仰を持って歩むことで
神の存在を実感し、その恵みに感謝し
いよいよ信頼を深くしていくことが大切です
そして、世の考えや思いに惑わされず
自分に与えられた使命をまっとうすべく
キリストの体である教会において教えられ
その心がキリストに似る者として育っていかなければならないのです

仮に、救いにあずかる前は、お金を信仰していた人も
神に希望をおくことで
お金があってもなくても平安に生きていける体験ができれば
その後どんなところに置かれても
必ず何とか生きていけると確信できる
これが信仰の成長です

しかし、信仰が育っていないと
自分の思い通りにならなければ、簡単に神への信頼を失い
それまでの数々の恵みも忘れて
神から離れてしまうことになりかねません

「心をつくして主に信頼せよ
自分の知識に頼ってはならない
すべての道で主を認めよ
そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」
(箴言3章5-6節)


自分の思い通りにならないから「神はいない」のではなく
どのような道を歩まされてもそこに「神を見いだす」ことが重要で
そのためには信仰が不可欠です
信仰を持って祈る時、困難を克服する知恵が与えられ
あるいは必要な物が与えられる等
信仰の先には、思わぬ祝福の道が待っていて
自分の知恵や力に頼らない幸いを体験できるでしょう

また、自らの利益ばかりを追求することなく
人への「思いやり」や「わきまえ」をもった歩みを心がけることが
キリストに似る者の道です
かといって人に侮られたり利用されたりしないように
ここでも神の知恵が重要なポイントになるのです

このように、神の恵みにより
人の役に立つ「良い実を結ぶ人」になっていけば
その人は神の祝福を受けますが
もし、その心に神を忘れ
傲慢で自己中心で、人に対しても痛みを与える存在であれば
やがてのろわれてしまうでしょう

せっかく救いにあずかっても
後者は、その心に神がなく、堕落した者ですから
キリストを再び十字架にかけ、さらしものにするというのです
このような状態に陥ってしまわないように
各々の心に信仰を育てるためにはどうすればいいのでしょうか

「すべて乳を飲んでいる者は、幼子なのだから
義の言葉を味わうことができない
しかし、堅い食物は、善悪を見分ける感覚を実際に働かせて
訓練された成人のとるべきものである」
(ヘブル人への手紙5章13-14節)

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい
信心のために自分を訓練しなさい
からだの訓練は少しは益するところがあるが
信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので
万事に益となる」
(テモテへの第一の手紙4章7-8節)


ここには、信仰のための「訓練」という言葉が出てきます
この訓練は、体の訓練ではなく心の訓練を表していて
神により、何が正しくて、どうすることが神に喜ばれるのか
善悪を見分けるために必要なものです

形ばかりの体の修行では心の訓練にならず
長年教会に行っていることが誇りにつながり
かえって心の成長の妨げになる場合もあります
自己流の信仰ができあがってしまうと
その間違いに気づくことが難しいので
そうならないように教会で正しいことを学ばなくてはなりませんが
それを素直に受け入れて心が成長することで
神の前に良い実を結ぶことできるのです

人生にあって、信仰とは特に目立つものではなくても
神はその人の人生が引き立つように働き
支え、導き、心が折れないように保って下さいます
この神の恵みがあるからこそわたしは強く生きていける
ここを確信し、将来に希望をおいて生きる
それが信仰者の生き方です

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し
まだ見ていない事実を確認することである」
(ヘブル人への手紙11章1節)


オーケストラをバックにソリスト(独奏者)が演奏する場合
主役はソリストですが
その演奏を引き立ててくれるオーケストラの存在の大きさを考えると
決してソリストの一人舞台ではないことがわかります

わたしたちの人生にあっても
主役は自分自身ですが
そこに神の助けを常に意識していると幸いです

神の備えた道を歩む者には多くの幸があることを認め
救われていることを実感し、感謝し
いよいよ神に近づき、神の事を知り
その歩みに習う者として心が成長していきますように



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