今週のみことば


6月14日


「信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三ヶ月のあいだ彼を隠した
それは、彼らが子どものうるわしいのを見たからである
彼らはまた、王の命令をも恐れなかった
信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み
罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び
キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた
それは、彼が報いを望み見ていたからである
信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った
彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした
信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように
彼は過越を行い血を塗った
信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが
同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ
信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったため、くずれおちた
信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので
不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった
このほか、何を言おうか
もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルおよび
預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう」
(ヘブル人への手紙11章23-32節)

ヘブル人の子として生れたモーセは
当時エジプトの王が出した命令に従えば殺されるはずでしたが
彼の両親は王の命令を恐れず、モーセを隠して育てていました
それでも3カ月に至った頃ついに隠しきれず、モーセを入れ物に入れて川に流したところ
彼は王の娘に助けられ、王女の子として王宮で育てられるのでした
王宮で最高の教育を受け、豊かな暮らしをしていたモーセですが
やがてヘブル人と共に生きる道を選んでエジプトから出て行きます
それは、彼が本当に神を信じていたがゆえの行動でした

その後も彼は「信仰」によって「行動」し
すべてのところで神の助けを得て行きます
長子が殺されるのを防ぐための「過越し」の方法については
柱と鴨居に血を塗るという不可解な行為であってもそのまま受け入れ
前は紅海、後ろはエジプトの軍勢という絶体絶命の窮地に立たされた時には
「手をあげなさい」という神の言葉に従い
難攻不落のエリコの城壁の周りを回るだけという意味のわからない方法も
そのまま実行しました
このように、彼はどんな時も神の言葉を信じて疑わず
その導きにただ従って行動することで、神の助けを体験していくのです

「これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって
信仰だけによるのではない
同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし
彼らを別な道から送りだした時、行いによって義とされたではないか
霊魂のないからだが死んだようなものであると同様に
行いのない信仰も死んだものなのである」
(ヤコブの手紙2章24-26節)


遊女ラハブについては
ヨシュア記2書に詳しく記されていますが
彼女はイスラエル人の出エジプトに関する奇跡の話を伝え聞き
イスラエルの神を信じていましたから
イスラエルの偵察隊をかくまったのです

イスラエルの神に対して
”あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられる”と
心から恐れ信じているラハブは
自分と親族の救いを求め、その運命を神にゆだねていくのでした

もし偵察隊をかくまったことが知れたら殺されるかもしれないのに
それでも彼らを助けた上
更には、後日イスラエルがエリコに攻め入る際にはラハブと親族が助かるように
目印として”窓から赤い紐を垂らす”よう命じられたら
彼女は疑うことなくその通りに行動しました

こんなことで本当に助かるのか?
彼らは本当に約束を守るのだろうか?
今まで体験したことのない立場に立たされた時
行く先がどうなるかわからないのに従う(受け入れる)には
何よりも信仰が必要です
そして彼女はその信仰の行為によって救われていくのでした

”神による救いの約束を信じる歩み(生き方)”については
特に難しい理屈も何もありませんが
モーセにしてもラハブにしても立場は全く違えど
両者とも「世の権力に屈しない」という共通したものがあり
これが神に喜ばれるものでした

いつも語られるように
世の中はお金や権力を土台としており
それらを頼りにして生きて行くのが普通なので
そういう類のものを必死で得ようとあくせくするわけです
これに対して、神を土台とする生き方は
損得や感情で動くのではない
神の側に立った、冷静で良心的、かつ穏やかな歩みであり
そこには常に神の知恵が必要です

ところが、救われてクリスチャンになった人でも
自分の誇りが捨てられない人は、自分の思いや経験を第一にしがちです
この場合、表は熱心に信仰しているように見えても
実は自分の思いが先行するので本当の神への信仰ではなく
自分自身を信仰しているにすぎません
そして、自分自身を信仰すると
信仰の土台は世の中と同じものになり
お金や名誉を大切と思い、その心は神から遠ざかっていくのです

「信仰」とは、なにか大それたものではなくて
神が人間ひとりひとりに持っているご計画がそのまま成るように
自然と開かれていく道に従って歩むことです

今回登場するモーセもラハブも
それぞれ神から「役目」が与えられており
人間的には尊い立場であったモーセと、反対に卑しい立場であったラハブと
共にその信仰によって神の救いを得て行く姿をそこに見ることができます

しかし、そんな彼らとて
”自分の人生はこの先どうなっていくのだろう”と
少なからず不安を感じたはずです
ましてや、わたしたちも見えない先の心配をして
心が揺らぐこともあるでしょう

それでも、この神に人生をゆだねて
”今という時を真摯に生きて行く”
その時に、必ず道は開けて、進むべき先も見えてくるのですが
もし価値観が世の中のそれと変わらないままなら
せっかく開けてきた道も進めないかもしれません

結局「信仰」とは
今まで信じてきた世の中の価値観から
神の側の価値観に変わっていくこと
それが正しいのだと受け入れて行くことなのでしょう

信仰者が仰ぎ見るのは
わたしたちを実際に活かし、助け、導き、用いて下さる神だけ
自分も含めて「人間」を見て頼っていくと失敗し、失望します

イスラエル人には神がついていると信じたラハブは
わたしたち異邦人の信仰者の見本であり
守られるかどうかもわからないあやふやな救いの約束も信じた「信仰」こそ
わたしたちが最も身につけていきたいものです

思うように行かない人生であっても
一体どこに連れて行かれるのかと不安はあっても
ただ文句を言う歩みではなく
神の救いの約束をかたく信じる歩みができますように



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