今週のみことば


6月21日


「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合
それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい
あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって
忍耐が生み出されるからである
だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように
その忍耐力を十分に働かせるがよい
あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば
その人は、とがめもせず惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい
そうすれば、与えられるであろう
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい
疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている
そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない
そんな人間は、二心の者であって
すべての行動に安定がない」
(ヤコブの手紙1章2-8節)

試練を喜ばしいと思うなど、なかなかできるものではありませんが
信仰者の場合は
”神にあってなされることだから、悪いことにはならない”と信じることが
このみことばに近づく道です

また、「忍耐」とは「がまん」ではなく
”神に望みを置いて、今の状況を受け入れ(従う)前進すること”
つまり、なにもせずにじっとそこに止まっているわけではありません

それでも、前進するためにどうすればいいのかわからない時には
そういう「知恵に不足している者」は
神に願い求めるようにと勧めています

何にしても、前進するために必要なのは「信仰」ですが
自分の信仰が今どういう状態なのか、自分ではなかなかわからないため
教会による導きが必要になるわけです

ところが
長く信仰生活をしていると「わたしは知っている」と思いがちで
そこから信仰は我流になり
肝心なところで心の定まらない、安定感のない人
そして感謝もできない人になっていくのでした

このように、風向きが変われば心もコロコロ変わる人を「二心の者」と呼び
「知恵に不足している者」でありながら、神に聞かず
「わたしは知っている」と思い、自らの知恵で歩もうとして
結局上手く行かなくなるのです

人が見て「満ち足りた人生」であろうとなかろうと
「感謝できる人生」であるかどうか、そこが大切な所なのですが
”神に望みを置いて、今の状況を受け入れ(従う)前進すること”
すなわち「忍耐」がなければ
「感謝できる人生」は遠のいてしまうでしょう

では、その「忍耐」する力はどこから出てくるかといえば
「洗礼と聖霊のバプテスマを受ける救い」に与っていれば
内側にある「聖霊」が知恵と力をあたえてくれる、とは言え
そのためには、自分の思いを抑え、神に願い求める信仰が必要です

多くの宗教は、何かを熱烈に信じて行動すれば救われると信じていますが
そのような信仰はすべて人の行いや力に頼るもので
自分自身を信仰しているようなものですから
神よりの助けがありません

また、救いに与ったクリスチャンであっても
神に望みを置くよりも、自分の思いを信じる信仰をしている人は
「二心の者」として、迷いに陥っていくのです

「あなたは、神はただひとりであると信じているのか
それは結構である
悪霊どもでさえ、信じておののいている」
(ヤコブへの手紙2章19節)


悪魔でさえ信じているこの唯一の神を
わたしたちは本当に心から信じているのでしょうか

どんなに勢いの良い、立派なことを言っていても
いざという時の行動にその人の信仰は現れるものです
人生は自分の都合の良いことばかりではなく
わざわざ嫌なことでもって信仰が試される時
その人が何の「土台」の上に自分の人生を建築しているのか
そこで明らかになってくるからです

”人生の土台を神に置く”
これがクリスチャンの基本ですが
信仰が「我流」になると
いつの間にかその土台が世の中と同じく、自分の思いや欲が中心となり
自分の思い通りではないところに導かれていく時には
不満や不安が生れます

更には、自分の思いで好き勝手なことをしていても
上手く行かなければ神に対して不満を持つ場合もあり
信仰の世界で自分が主になると
どんどん間違った方向に進んでしまうのでした

世の中においても
基本をマスターせず「変なクセ」がつくと物事は上達しないように
結局、クリスチャンだといっても
我流=変なクセがついてしまうと
信仰が成長しません
これは、ただ教会に熱心に行きさえすればいいというような
「律法(おきて)の信仰」に慣れてしまっているからで
「心の改革」というものに目が向いていないため
自分はすでに信仰のことは「知っている」「やっている」と勘違いしている状態です

スポーツ選手が思うような結果を残せなければ
悔しくて「こんなはずはない」と思っても
今、目に見えているのが自分の実力なのだと
そこを冷静に受け止めて行くことができれば
その人はそこから成長するチャンスもあります

ルカによる福音書24章では
イエスが葬られた墓に行った女たちが、その姿を見つけられず途方にくれていると
御使いが現れて
「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか
その方は、ここにはおられない。よみがえられたのだ」(5-6節)

と語っています

彼女たちは、イエスがあらかじめ語られた言葉を信じていれば
その復活がすぐに分かったはずです
しかし、そこまで信仰がなかったので
イエスの姿を死人の中に探したのでした

わたしたちの信仰も我流になると
自分の思いに捕らわれて(←ここが変なクセ)
死んだ人の中にイエスを探そうとするような絶望の道をたどることになります
人知を超えた神のご計画を信じるからこそ
たとえ不本意な(自分の思いとは違う)道であっても
そこに神の姿を見いだし、希望をもって前進する
その時に不思議な、そして幸いな道が開かれてくるのです

「低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい
また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい
富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである
たとえば、太陽が昇って熱風をおくると、草を枯らす
そしてその花は落ち、その美しい姿は消え失せてしまう
それと同じように、富んでいる者も
その一生の旅なかばで没落するであろう」
(ヤコブの手紙1章9-11節)


人生において「富」を土台にすると
それは一時的に人を喜ばせても、やがて消えてしまうもの
そのようなものの中に希望を見つけようとすれば
行く先にあるのは絶望です

人は試練に会う時
その心がどこに向いているかを見られています
「あなたは、神はただひとりであると信じているのか」
自分の思いが神になっていないでしょうか
これを自分に問いかけながら
試練を通して
我流ではない本当の信仰が育っていきますよう
祈り求め、忍耐を持って従っていきましょう



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