今週のみことば


6月28日


「試練を耐えしのぶ人は、さいわいである
それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう
だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は神からきたものだ』と言ってはならない
神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく
また自ら進んで人を誘惑する事もなさらない
人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである
欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す
愛する兄弟たちよ、思い違いをしてはならない
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下ってくる
父には、変化とか回転の影とかいうものはない
父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために
真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである」
(ヤコブの手紙1章12-18節)

「試練を耐え忍ぶ」とは、何もしないでじっとしていることではなく
試練を嘆きつつも、そこから立ち上がろうとして
実際に「自分にできる事」を模索しながら前に進むことをいいます

当教会の初代牧師は25歳の時に盲人になりましたが
落胆していても仕方がないと、盲学校へ入学し
そこに来ていた宣教師によってキリスト教に出会いました
その後は、鍼灸師の資格取得に励み
杖一本を頼りに、ひとりで遠方までも出かけるなど
盲人だから何もできない・・ではなく
自分の持ち味を十分に生かしながら、前を向いて進んで行ったのです

不思議なことには
人はひとつの感覚を失うと別の感覚が研ぎ澄まされ
杖で道路をたたくと、返ってくる空気で先に何かモノがあることがわかるといいます
また、料理や裁縫なども盲人はできないと思っている人が多いですが
勘が鋭くなれば何でもできるわけで
「前を向く」事により、人は変わっていきます

このように、神が与えた試練を通して人は強くなり
その試練は人生の「糧」となっていくのでした

しかし、自ら誘惑に負けて困った事態に陥った時は
それを『神からきたもの』と、神さまのせいにしてはいけません
人は、自分の欲に引きずられて自らダメになるのであって
神は人を誘惑したりしませんし、ましてや悪の誘惑に陥るような方ではないのです

人が誘惑に陥るのは
悪い欲望が人の内側に入ることによるもので
欲望に従って罪が生み出され、罪が成熟して死をもたらします
だからこそ
わたしたちの内側に神の思いや考えが満たされていないと
欲望が支配してしまい
都合の悪いことをすべて神さまのせいにして
自らダメになっていくのです

このように、人は色々と思い違いをしますが
神には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる影もなく
すべてのものごとは神の自由な意思(御旨)によって決められていて
わたしたちはみなそこに置かれている者にすぎません
そういうわけですから
神の御旨とは、決して自分の思い(欲望)が成ることではないのです

出エジプト記14章には
エジプトを出たイスラエルの民が、パロの軍勢に追われて恐れ
”エジプトに墓がないから荒野で死なせるために連れ出したのだろう”と
モーセに詰め寄る記述があります

この後かれらは、目の前の紅海の水がわかれる奇跡を体験しましたが
その時は大いに喜び、神を信じても
新たな試練が起こるとすぐに文句を言い出しました

約束の地に導くと神が決めた以上は
その御旨は必ず成就します
しかし、イスラエルの民は、「水、肉、マナ」と
さまざまな必要なモノが与えられる奇跡を目の当たりにしながら
奇跡の体験が少しも「糧」にならず、騒ぎ続けました

そのため、彼らは本来40日でカナンの地に入れるはずだったのに
自ら入ることを拒否し
それから40年もの間、荒野をさまよう事となるのです

わたしたちは、このイスラエルの民の姿に重なるものをもっており
神に従い、神の用意された道を歩みつつも
何か問題が起こるたびに文句を言っているかもしれません

荒野で、水がない、パンがない、肉がないと騒ぎ
水・パン・肉しか見ていない人は
そこにどれほどの神の働きがあるのかを見いだす努力をしていないのです
そこで
神を見る人と見ない人の差が生じ
その差が各々の生き方へと現れてくるのです

神は変わることのない完璧な方ですが
イスラエルの民は、いくら与えられても
そこに神を見いだすことができませんでした
そして、わたしたち人間はみな同じような所でつまづき
どんな奇跡も「糧」にならない歩みをしがちです

自分の心に欲望がふくらんでくるほど
「神に反する思い=罪」が生れてくるので
もし自分の思い通りにならない時には
自分がそれにふさわしい器ではないのだと知ることが大切です
口では「わたしにはイエスさましかいない」と言いつつ
自分の我を通しているのは信仰ではありません

人にはそれぞれ「似合った器」がありますから
どうしようもないことにはこだわらないようにしましょう
そして、どんなに優れた器であっても、神になければ器の良さが生きず
一見普通に見える器であっても、神にあれば大いに用いられる者となります
このように、用いられる経験をしたなら、傲慢にならず
そのことを財産としてしっかり心に留めておきましょう

「そして、みことばを行う人になりなさい
おのれをあざむいて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(22節)

「もし人が信心深い者だと自任しながら
舌を制することをせず、自分の心をあざむいているならば
その人の信心はむなしいものである」(26節)


ただ聖書を読んで、みことばを知っていても
それを行わなければ意味がありません
自分が信心深いと思うなら
その口で神に文句を言うべきではないのです

今、自分の目の前には自分の思いとは違う事が成されていても
この事がこの先どのようになっていくのか、神の導きを見て行くことを心がけ
文句を言う前に、今の自分に何ができるのかを考えて
それを実際に行動に移していきましょう

「見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く」
(申命記11章26節)


イスラエルの民は、肉の目を持って、欲を追いかけたため
奇跡の後ろにいる神を見ることができませんでした
わたしたちはそれと同じ道をたどらないように
神の目をもって「祝福」を選ぶことができますよう心していきたいものです



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