今週のみことば


7月5日


「わたしの兄弟たちよ
ある人が自分には信仰があると称していても
もし行いがなかったら、なんの役に立つか
その信仰は彼を救うことができるか
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合
あなたがたのうち、だれかが
『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで
そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ
それだけでは死んだものである」
(ヤコブの手紙2章14-17節)

ここまで、みことばを通して
”キリストの心を心とする””キリストに習う”といった
クリスチャンとしての生き方を学んできましたが
わたしたちの心に本当に「信仰」があるなら
そこには信仰に見合った(ふさわしい)「行い」があるはずです

人生には様々な試練があり
その時、心に安らぎがなければ穏やかに過ごすことはできません
そして、その安らぐ生き方が”キリストに習う”生き方なのです

思わぬ出来事や不都合な人と遭遇した場合
自分の正しさだけで進もうとすると必ずまさつが起こるでしょう
不本意でも”一歩引く(許し)”という行動は重要で
一度おさまった問題を徹底的に追及するようなことは
関係をぎくしゃくさせるばかりです

また、弱い立場の人を前にした時
キリストの心に習う”思いやり”でもって
自分に何ができるのか、どうすることが神の愛に習うことになるのかと
考え、行動することも大切です

ただし、自分の感情(思い)に流されると行動が行き過ぎ
かえって相手のためにならない事をしてしまう場合や
自分が良いことをしていると思って傲慢になることもあるので
正しい判断をするために、聖霊の働きがとても重要になるのです

その時、もし自分の考えが常に正しいと思っていると
そのまま自分の感情に任せた行動をしてしまいますから
考え方が自分中心から神中心に変わっていくように
自らが低くなっていく必要があります

今まで何度も登場してきた「パウロの回心」はこの見本であり
元はキリスト教徒の迫害者であったパウロの変わり様を見て人々がイエスを信じたように
わたしたちの心の変化〜行動の変化が
キリストの福音が本物であることを周りに証明するのです

そして、このヤコブの手紙2章は、この先
更に「信仰の行い」の奥深い意味に言及しています

「ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか
わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時
行いによって義とされたのではなかったか
あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き
その行いによって信仰が全うされ
こうして『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』
という聖書の言葉が成就し、そして、彼は”神の友”と唱えられたのである
これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって
信仰だけによるのではない
同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時
行いによって義とされたではないか
霊魂のないからだが死んだものであると同様に
行いのない信仰も死んだものなのである」
(ヤコブの手紙2章20-26節)


創世記22章に記されているように
神の約束により与えられたひとり子のイサクを捧げるようにと命じられた時
アブラハムは神の言葉に従い、イサクを殺そうとしたところで止められました

『あなたを多くの国民の父とする』
このように神より約束されて生れたイサクが死んでしまったら
人間の常識で考えれば、約束は果たされないことになります
それでもアブラハムが神の言葉に従ったのは
自分がここまで導かれたことも、イサクが生れたことも
そしてこれからのことも
すべては神のご計画のうちにあることで
神は必ず約束を守り、すべてを幸いにして下さると知っていたからでした

これが、神の言葉に従って、行く先も知らされないまま
今いるところを旅立ったアブラハムの信仰です
そして、先の見えない不安と常に隣り合わせのわたしたちも
その人生を「信仰の行い」によって乗り越えて行くべきことを
ここから教えられるのです

アブラハムは一見とんでもない難題を突き付けられた形ではありますが
結局、イサクは殺されず
振り返れば一頭の雄羊がいたので、それを捧げ物としました
このように、神は必要なものをあらかじめ用意して
最後に、神は愛の方であることをわたしたちに知らせるのです

今わたしたちに直接神の言葉は聞こえてこなくても
人生にあって通される道が神の導く道です
そこには様々な「難題」もあって、そのたびに信仰が揺らぐかもしれませんが
アブラハムの信仰に習い
必要なものは神が備えて下さることを信じて
難題も受け入れて進んで行きましょう

ただし、これは決して無茶をするという意味ではありません
あくまでも、開かれた道が不都合でも受け入れてそのまま進むということで
自分で勝手に何か無茶なことを始めると
その無茶は自分に返ってきますから注意が必要です

問題を前にして、まず祈って冷静になり
神に希望を置いて
自分のするべきことをなしていく時
アブラハムのように、やはりこの神は愛の方であると知ることができます
そして、この得難い経験は
後のわたしたちの信仰を支える証しとなるでしょう

「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである
キリストもあなたがたのために苦しみを受け
御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである
キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった
ののしられても、ののしりかえさず
苦しめられても、おびやかすことをせず
正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」
(ペテロの第一の手紙2章21-23節)


すべての事は神の栄光に結びつくように計画されているのですから
その計画のうちに歩まされる者には
どんな事が起きても恐れなし!と信仰を堅くし
キリストの足跡に従って
心新たに新しい週に踏み出していきたいものです



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