今週のみことば


7月19日


「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか
その人は、祈るがよい
喜んでいる者があるか
その人は、さんびするがよい
あなたがたの中に、病んでいる者があるか
その人は、教会の長老たちを招き
主の御名によって、オリブ油をそそいで祈ってもらうがよい
信仰による祈りは、病んでいる人を救い
そして、主はその人を立ちあがらせて下さる
かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる
だから、互いに罪を告白し合い
また、いやされるようにお互いのために祈りなさい
義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」
(ヤコブの手紙5章13-16節)

人生には様々な問題があり
そのたびに不安で心が揺らぐことはあっても
神に希望を置き、祈ることができる人は幸いです

「祈る」とは、神から与えられた道を、都合が悪くてもまず受け入れ
愚痴に時間を費やさず
混乱して問題をますますややこしくしないように
冷静に対処する第一歩になるわけですが
その祈りには「信仰」が必要です

もし神がいないなら
人生ウソをついて適当に面白おかしく生きる人が勝ちかもしれません
しかし、神は確実にいらっしゃるのですから
正直に悔い改め、神の導く方向へと軌道修正しながら歩む人が恵まれます

ましてや、イエスの名による救いを受けながら
好き勝手に生き、その結果上手く行かず
成ったことに文句を言うのは
とても信仰がある姿とは言えません

反対に、神が導く道ならば
そこに問題が起きても、万事は益となるようにして下さいますから
そのまま信仰をもって歩む(神にゆだねる)ことができたら幸いです

また、もし喜ばしいことが起きた場合も
それを自分の手柄とせず、自分を誇らず
神の恵みとして感謝していきましょう
それもまた信仰を持った人の生き方だからです

更に、病気の人のためには
牧師に油をぬって祈ってもらう「神癒祈祷」があり
「信仰の祈り」は病んでいる人を救うこと
そして、その人は神によって立ち上らされ、罪も許されるとの約束があります

ただし、ただ油をぬって祈ってもらえばいいというものではなく
神に願い求める際には「信仰」が必要であると
以下のみことばにも記されていますから
今一度、各々の信仰について自らに問いかけてみることが大切です

「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい
疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている
そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない
そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない」
(ヤコブの手紙1章6-8節)

4章3節には
わたしたちがもし願い求めても与えられないなら
それは「快楽のために使おうとして悪い求め方をするからだ」とあるように
人の願いの多くは自分の思い(欲)から出たものかもしれません
もし、自分の欲から出た妄想を信じて生きているとすれば
それは本当に空しいものです

信仰者の最大の武器は何かと言えば
「聖霊」をもって神に祈ることができる、というものでしょう
自分にとってどうなることが本当の幸せなのかは
神の定めた道に従って歩むことですから
目の前に開かれていく道を受け入れて
自分に間違いがあれば、悔い改めて進み
あるいは、神よりの試練であれば、そのまま祈りと共に進んで行きましょう

「義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」(5章16節)
と記されているところでは
「義人」とされる信仰者の姿を
神に喜ばれる「行い」については2章14節から
舌を制する生き方については3章を
神の御旨を第一とする考え方については4章13節からを参照しながら
具体的に知ることができます
そして、義人の祈りの力がいかなるものかが
以下のみことばに続きます

「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが
雨が降らないようにと祈りをささげたところ
三年六ヶ月のあいだ、地上に雨が降らなかった
それから、ふたたび祈ったところ
天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた」
(ヤコブの手紙5章17-18節)


神の前に悪を行うアハブ王に対して
預言者エリヤは干ばつを予言しましたが
彼はすべて神の命じる言葉に従って行動したので
その予言はすべて成就していくのでした

また、干ばつの間、エリヤは神に命じられるままケリテ川のほとりに身を隠し
そこで川の水を飲み、カラスが運んでくるパンと肉で養われます
更には、川の水がかれてくると、別の場所に導かれていくのでした
こうして3年半もの間、雨が降らないままエリヤは神によって養われ
アハブ王は神の力をいやというほど知らされた後
今度は同じくエリヤの預言により雨が降ることになるのです

アハブ王から命を狙われることになっても
エリヤは預言者としての使命に忠実に歩み
隠れていなさいと言われればそのまま指定された場所で隠れ
神に命じられれば再び王の前に出て行き
すべてを神にゆだねていました
その信仰によって生きる姿が義(正しい)と認められ
彼の予言は成就するのです

そんなエリヤもわたしたちと同じ人間でした
わたしたちは小さく、エリヤほどの働きはできそうになくても
各々には神が与えた使命があって
それに忠実に歩むよう求められている事は確かです

「わたしたちの兄弟よ
あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり
だれから彼を引きもどすなら
かように罪人を迷いの道から引きもどす人は
そのたましいを死から救い出し
かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである」
(ヤコブの手紙5章19-20節)


神から与えられた「真理の道」からそれて
自分の欲から出た道に迷い出て行く人が、再び引きもどされるなら
その人の魂は死から救い出されることになります

イエスの名による洗礼と聖霊の救いを受けたクリスチャンでありながらも
わたしたちは完成された信仰者ではないがゆえに
迷いの道にそれていくかもしれません
それが他人であれ、自分自身であれ
真理の道に気づいて引き返すことができれば
この世にある様々な試練にも打ち勝ち
不安に負けず、自分のなすべきことをなし、神に希望を置いて歩む
本当の意味で救われた者としての幸いな生き方ができるでしょう

「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた
そのために『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり
多くの国民の父となったのである」
(ローマ人への手紙4章18節)


アブラハムにイサクが与えられるという神の約束については
これまでにも何度も書き記してきましたが
自分の思いや妄想ではなく神の約束を信じたアブラハムの姿は
信仰者としての最高の姿であると言えるでしょう

「聖霊」をこの身にいただいているというのなら
神の正しさをあらわす生き方をしなければ信仰者の意味がありません
人生に波風はつきもので
そこで踊らされていると迷いの中に落ち込んで溺れてしまいます

一人一人にはみな神の祝福の約束があります
どうぞ自分に与えられた道に忠実に歩み
神に喜ばれる者となっていくことができますように



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