今週のみことば


8月2日


「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している
現在、見てはいないけれども、信じて
言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている
それは、信仰の結果なるたましいの救いを受けているからである」
(ペテロの第一の手紙1章8-9節)

ここに記されている「たましいの救い」は
洗礼と聖霊のバプテスマによって救われることを表しています
現在わたしたちはイエスの姿を見たことはなくても信じ
どんな苦難の時にも希望をもって生きることができるようにされているのは
自分の熱心によるものではなく
この救いを受けているからにほかなりません

洗礼によってこの身の罪は許されても
この世に生きている(肉体を持っている)間、人間は欲や情と言った弱さも持ち続け
そのためにしばしば心が不安定になるものです
そんな人の「内側の思い」をコントロールしてくれるのが「聖霊」で
人を正しく導き
新しい望みを抱かせ
この世の様々な問題にも勝利させて下さるのです

「何事も思いわずらってはならない
ただ、事ごとに、感謝を持って祈りと願いとをささげ
あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい
そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が
あなたがたの心と思いとを
キリスト・イエスにあって守るであろう」
(ピリピ人への手紙4章6-7節)


旧約聖書に登場する昔の信仰者たちは
救い主を見ることはできませんでしたが
それぞれ置かれたところで神を求め、信じて従い、各々の使命を全うしました
その信仰によって彼らは義とされたのです

わたしたちには、人間的に考えればそこまでの信仰は持てないかもしれません
しかし、幸いなことに「たましいの救い」が与えられましたから
この信仰の弱いわたしたちでさえ
彼らと同様に、神の前に義とされる身分にされました

そして、目の前にイエスの姿を見ることはなくても
”これは神だ!”と思うような不思議な助けに出会ったなら
その経験をしっかり自分のものとして信仰生活に活かしていきましょう

まず、洗礼と聖霊のバプテスマに与って救われるところからすべては始まり
その後、イエスと共に歩むからこそ信仰は堅固なものになります
勉強や修行で救いに至るのではなく
救われているからこそ神がどういう方であるがわかってくるのです
神がどういう方であるかわからずに
どうして見てもいない神を信じ、人生をまかせることが出来るでしょうか

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し
まだ見ていない事実を確認することである」
(ヘブル人への手紙11章1節)


ヘブル人への手紙11章には
昔の信仰者たちが色々登場しますが
彼らはみな、神を「確かな存在」として信じていました
そして、彼らがそれぞれ神より命じられたことに従えたのは
「ゆるがぬ土台の上に建てられた都=天国」を待ち望んでいたからです

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時
それに従い、行く先を知らないで出て行った
信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り
同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ
彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである
その都をもくろみ、また建てたのは、神である」
(ヘブル人へ手の手紙11章8-10節)


わたしたち一人一人の人生の土台が神ならば
そこには堅固な都が建築されます
何しろ設計者も建築者も神なのですから
幸いな都になるのは間違いありません・・と
このように信じていくためには信仰がなくてはなりませんし
信仰なくしては神に喜ばれることはないのです

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない
なぜなら、神に来る者は
神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを
必ず信じるはずだからである」
(ヘブル人へ手の手紙11章6節)


信仰のある人とは、神がどのような方であるか知っている人で
世の中がどのように動いて行こうとも動じず
常に神に来る=神の側に立った考え方をして
神に希望を置いて生きていきます
そういう意味では
人生はお金だと信じている人には
今回のようなみことばはまるでピンとこないでしょう

しかし、信仰があれば、神の側に立てるので
色んな事があっても、嫌なことを思ったり言ったりすることも少なくなり
心がすさんでも行きません
このように、心が聖霊に守られていれば卑屈にならずに済むわけです

昔の信仰者たちは、みな信仰をいだいて死んで行きました(13節)
この「死」は、直接的な意味のみならず
置かれたところで、神に希望を置いて生きるために
自分の古い考え(価値観)に「死んだ」との意味もあります

色々な問題が起きれば
世の中の人は恐れて、自分なりの対処をしようとしますが
人間の知恵や勘や経験には限りがあり
どこかで行き詰ってしまうもの

どんな時も
”救われて、神と共に歩んでいれば人生何とかなる”
”自分の思い通りではなくても、神の御旨が成ればそれでよし”と
「たましいの救い」を受けているからこそ信仰が生き
イエスを見たこともないのに希望をもって生きることができる
こう考えてみれば
この救いがどんなに有難いものなのか改めて教えられます

わたしたちは、口ではイエスさま!と言いつつも
その心が欲や不安で満たされてくると
行動は信仰から離れたものになりますから
欲や不安で心が操られないように、聖霊の導きを感じて
正しい道を歩んで行くことができますように



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