今週のみことば
8月16日
「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて
今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい
それによっておい育ち、救いに入るようになるためである
あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである
主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である
この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって
霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって
イエス・キリストにより、神に喜ばれる霊のいけにえを、ささげなさい
聖書にこう書いてある
『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く
それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない』
この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが
不信仰な人々には”家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの”
また”つまづきの石、さまたげの岩”である
しかし、彼らがつまづくのは、御言に従わないからであって
彼らは、実は、そうなるように定められていたのである
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である
それによって、暗やみから驚くべき光に招き入れて下さったかたのみわざを
あなたがたが語り伝えるためである
あなたがたは、以前は神の民でなかったが、今は神の民であり
居絶は、あわれみを受けたことのない者であったが
いまは、あわれみを受けた者となっている」
(ペテロの第一の手紙2章1-10節)
コリント人への第一の手紙3章において、パウロは
イエスの名による救いを受けてクリスチャンになった人々であっても
まだ神を理解せず、肉に属する「肉の人」であり続けているがために
彼らの間で、ねたみや争いがあるのだと指摘しています
実際に、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と
人々は神よりも人間である使徒を見ており
人間を誇ることからなかなか離れられないのでした
このように、洗礼と聖霊による救いを受けたわたしたちも
神がいかなる方であるかを理解する力がないので
「霊の乳」(2節)すなわち聖霊の力によって教えられ、導かれて
少しずつ育っていく必要があります
こうしてだんだん堅いものでも食べれるように
つまり、どんな厳しい状況に置かれても信仰をもって受け入れ
神の助けを得て、試練に打ち勝つことができるように成長していくのです
わたしたちはすでに
「主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである」(3節)
とあるように
「救い」という恵みを与えて下さった神がいかに恵み深い方であるかを
もう一度思い出してみましょう
わたしたちはいかにしてこの「救い」にあずかり
どんな希望を持って生きていくのでしょうか
「わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって
さまざまの情欲と快楽との奴隷になり
悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互いに憎み合っていた
ところが、わたしたちの救い主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき
わたしたちの行った義のわざによってではなく
ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊によって新たにされて
わたしたちは救われたのである
この聖霊は、わたしたちの救い主イエス・キリストをとおして
わたしたちの上に豊かに注がれた
これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ
永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである」
(テトスへの手紙3章3-7節)
自分の努力によらず、神のあわれみによって救われたわたしたちは
神でありながら人々から侮られたイエス、すなわち
「人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石」(4節)を信じています
『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く
それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない』(6節)
と記されているように
この「尊い石」は、わたしたちの人生にとっての土台となる石であり希望ですが
信じない人にとっては単なる「捨てられた石」にすぎません
こんなに大事な石であるにもかかわらず
分からない人には価値のないものなのです
「このイエスこそは
『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである
この人による以外に救いはない
わたしたちを救いうる名は、これを別にしては
天下のだれにも与えられていないからである」
(使徒行伝4章11-12節)
「かしら石」とは、建物の中心となる一番大切な石
そして、この石を中心としてクリスチャンは生きていきます
ところが
パリサイ人や学者・長老たちが、自分たちにとって
イエスの教えは都合が悪いので受け入れなかったように
わたしたちも、せっかく救われていながら
聖書のみことばが自分の都合や価値観と違うと
(パリサイ人らと同じように)受け入れられないかもしれません
このように
救われていても、みことばに従わない(受け入れない)なら
「尊い石」も”つまづきの石、さまたげの岩”になってしまいます
イエスの名による救いを受け
イエスにより頼み、聖書のみことばを中心とした生き方をしていくなら
人生にどんな事が起きても
すべてのことは良い方向へと導かれていきます
人には多くの考えや計画があっても
最終的には神のご計画が成っていくからです
各々色んな夢はあるにしても
それがどうなっていくのかはすべて神におまかせして
必ず幸いへと導いて下さる神に救われている事に希望を置き
揺るがない土台の上に、信仰の家を建築して行きましょう
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない
岩を土台としているからである」
(マタイによる福音書7章24-25節)
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