今週のみことば
9月6日
「善をおこなって苦しむことは(それが神の御旨であれば)
悪をおこなって苦しむよりも、まさっている
キリストもあなたがたを神に近づけようとして
自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために
ひとたび罪のゆえに死なれた
ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである
こうして、彼は獄に捕らわれている霊どものところに下って行き
宣べ伝えることをされた
これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間
神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである
その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは
わずかに8名だけであった
この水はバプテスマを象徴するものであって
今やあなたがたをも救うのである
それは、イエス・キリストの復活によるのであって
からだの汚れを除くことではなく
明らかな良心を神に願い求めることである
キリストは天に上って神の右に座し
天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである」
(ペテロの第一の手紙3章17-22節)
ここに記された「善」については
具体的に以下のように記されています
「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛をもち
あわれみ深くあり、謙虚でありなさい
悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず
かえって、祝福をもって報いなさい
あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである」(8-9節)
これらのことを実際に行うのは
人間の心の弱さを思えば非常に難しいことですが
それを可能にするのがキリストの十字架による「救い」です
神が肉体をもって生れてこられたイエスは
罪のないかたでありながら十字架にかかり
万民の罪をその身に負うて一度死なれました
しかし、こうして肉体は殺されましたが、その霊は生かされ
昔ノアの箱舟に入らなかった人々の元へ行き、福音を伝え
その後、よみがえって多くの人の前に現れた後
天に上がって行かれました
ここで、”神の右に座し”と書かれているのは
「神の右=権威の象徴」との意味であり
つまり、神本来の地位につかれたことを表しています
神の言葉に従って箱舟に入り、洪水から救われたのは
ノアとその家族の8名だけでしたが
”水を経て救われた”というこの水が洗礼のバプテスマの象徴となり
現在わたしたちはこれによって救われることとなったのです
この洗礼のバプテスマを受けることは
単に体の汚れを洗うのではなく
肉体の罪がきよめられることで、良心を保って生きることが可能とされました
だからこそ
自分の意志だけでは難しい「善」を行うことも
バプテスマを受けて救われることによって可能になるのです
罪ある人間を天国に導くために
十字架の苦しみを通られた神イエスの心に習って
わたしたちもまた、神の御旨に従い
自分の「我」を通さず、「己を捨てる」努力をする
それはとても難しことではありますが
わずかでもそうあろうとすることが大切です
神を「信じる」というのは決して表面的なものではなく
本当に信じていれば、自分の我を通すこともなく
どんな事が起ころうが、恐れもないでしょう
これが本当に「神にあって恵まれた人」の姿なのです
人は恵まれるために何をなすべきか
それは、まず第一に洗礼と聖霊のバプテスマを受けて救われること
そして、みことばに従って生きていくことですが
大切なのは神を信じる心を持ち続けることです
人間同士に「相性」というものがあるように
わたしたちは神との間にはどのような相性があるのでしょうか
神ご自身は大きな愛をもってわたしたちに接して下さっていても
(その愛ゆえに十字架の救いがあるわけですが)
人間の側の心がひがんでいれば、その愛を受け止めることができず
物事が上手く行けば傲慢になり
自分の栄光にしてしまうかもしれません
大きな奇跡を体験しながら
そのうち神を忘れる人も多く
こうして人は、自ら神との相性を悪くしがちなのです
先週のみことばにも記したように
栄華を誇ったソロモン王は
最後に何が正しいことなのか分からなくなり
女性の機嫌を取るために偶像に身をかがめるようになりました
神に助けられながら、神を侮るソロモン
父親であるダビデ王も女性のことで罪を犯しましたが
彼は決して神を忘れず、偶像を拝むことはありませんでしたから
そのダビデの信仰ゆえに
ソロモンの生きている間は国は保たれて行くのでした
わたしたちは常に神の助けを期待しつつも
自分がすべきことをしているのでしょうか
また、神への感謝を忘れてはいないでしょうか
バプテスマによってこの身を洗われ
天国に入るにふさわしい者とされたことを心に留めて
自ら神から離れる道を選ぶことのないよう
みことばを少しでも実践する人となって行くことができますように
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