今週のみことば


10月17日


「主はヨシュアに仰せになった
イスラエルの人々に告げなさい
モーセを通して告げておいた逃れの町を定め
意図してでなく、あやまって人を殺した者がそこに逃げ込めるようにしなさい
そこは、血の復讐をする者からの逃れの場所になる」
(ヨシュア記20章1-3節)

カナンの地においてイスラエルの12部族の領地が割り当てられた後
神はヨシュアに「逃れの町」を定めるよう命じます
それは、かつてモーセに告げられていたことでした

出エジプト記の20章には「十戒」が記され
続いて、さまざまな律法が記されていますが
21章の12-17節には、「死に値する罪」について言及しており
そこでは、殺人が「故意」か「偶然の過失」かによって
扱いが違うことが分かります

「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる
ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合には
わたしはあなたのために一つの場所を定める
彼はそこにのがれることができる」
(出エジプト記21章12-13節)


更に民数記35章には
「故意」か「過失」の殺人かの違いが具体的に記されています

「しかしもし、敵意もなく、思わず人を突くか
故意にではなく人に何か投げつけるか
または、人を殺せるほどの石を、よく見もせずに人の上に落とすかして
人を死なせた場合
その人がその敵でもなく、危害を加えようとしたのでもないときには
共同体はこれらの判例に基づいて
殺した当人と血の復讐をする者との間を裁かなければならない
すなわち、共同体は、人を殺してしまった者を血の復讐をする者の手から救い出し
共同体が、彼の逃げ込んだ逃れの町に彼を帰さなければならない
彼は聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまらねばならない」
(民数記35章22-25節)


こうして大祭司が死んだ後は、彼は故郷に戻ることができるばかりか
彼に対してはもう復讐をすることもできなくなるのでした

出エジプト記21章23節以降には
人が罪を犯した時には
「命には命」「目には目」「歯には歯」をもって償うべきとありますが
この厳しい律法の時代にあっても
「逃れの町」が用意されていたことは
やがて全人類の罪が許される「十字架の救い」が与えられることの「ひな形」です

また、現代の「逃れの町」は教会であり
どんな人もそこへ逃げ込んで救いを受けることができます
そこでは洗礼と聖霊のバプテスマの救いを与えられた後
人生を生きやすくするための知恵や
神の側に立った正しさの判断といった
生きる指針も与えられるのです

「主が先祖に誓われた土地をことごとくイスラエルに与えられたので
彼らはそこを手に入れ、そこに住んだ
主はまた、先祖に誓われたとおり
彼らの周囲を安らかに住めるようにされたので
彼らに立ちはだかる敵は一人もなくなった
主は敵を一人残らず彼らの手に渡された
主がイスラエルの家に告げられた恵みの約束は何ひとつたがわず
すべて実現した」
(ヨシュア記21章43-45節)


イスラエル人は、自分たちで領地を選んだのではなく
それぞれ神から分け与えられた地を受け入れました
そうした時に、神は彼らの周りを住みやすいように
敵もいない状態にして下さっています

これらの話は空想の世界の話ではありません
みな現実の世界になされた歴史なのです
キリスト教は多くの宗教の一つではなく
この神の働きは世界史の中で成されているわけです
そして、その働きは現在も、現実の生活の中に成されていて
神を信じ、その導きに従おうとする人には
必ず神の不思議な業が成就するのです

こうして
昔も今も神の約束はすべて実現していくわけですが
その時わたしたちは神の導きに従えるのでしょうか
実はイスラエルの民も、神の言葉に反して残してしまったカナンの地の民が
後に彼らを滅びに至らせます

わたしたちにとって一番怖いのは
他人ではなく自分の心かもしれません
自分の思い(欲)のために道をあやまり
自ら滅びにいたる人は少なくないからです
自分の欲で道を決めると正しいことに目がとまらず
自分が何をしているのかさえ分からなくなる
人はそれほど弱いものなのです

すべての祝福は、神と共にあるからこそのもの
せっかく安らかに住めるようにしてくださっているはずの地を
自らの思いで台無しにすることがありませんように
イスラエルの民の歩みを教訓として
各々の信仰生活に生かしていきましょう



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