今週のみことば


2月7日


「あなたの子どもたちのうちで、わたしたちが父から受けた戒めどおりに
真理のうちを歩いている者があるのを見て、わたしたちは非常に喜んでいる
婦人よ、ここにお願いしたいことがある
それは、新し戒めを書くわけではなく
初めから持っていた戒めなのであるが
わたしたちは、みんな互いに愛し合おうではないか
父の戒めどおりに歩くことが、すなわち、愛であり
あなたがたが初めから聞いてきたとおりに愛のうちを歩くことが
すなわち、戒めなのである
なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が
多く世にはいってきたからである
そういう者は、惑わす者であり、反キリストである
よく注意して、わたしたちの働いて得た成果を失うことがなく
豊かな報いを受けられるようにしなさい
すべてキリストの教えをとおり過ごして、それにとどまらない者は
神を持っていないのである
その教えにとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ
この教えを持たずにあなたがたのところに来る者があれば
その人を家に入れることも、あいさつをすることもしてはいけない」
(ヨハネの第二の手紙4-11節)

わたしたちは、キリストによる救い(洗礼と聖霊)を受けた後も
この世に存在する様々な惑わしの中で、迷い、悩みながら
神の知恵と力を得て生きています
もし自分の力で悩みと戦おうとすれば
心が病んで、すでに死んだようになっていたかもしれません
人間がいくら正しい事をしようにも限度があり
聖霊の助けなしに、正しく歩むことは困難だからです

クリスチャンは
「イエス・キリストが肉体をとってこられたこと」を信じている者ですが
神が肉体を持って生れて来られた目的は
「友のために命を捨てる」という最高の愛によって
万民に救いを与えるためですから
もし「イエス・キリストが肉体をとってこられたこと」を否定するなら
愛=神=イエスを否定することになるのです

そして
「父の戒め」すなわち神の戒めは「愛のうちを歩くこと」
神の愛によって救われた者は
お互い愛を持って、神の愛のうちに歩むべきことが教えられています

ところが
どうしても「イエス・キリストが肉体をとってこられたこと」
受け入れられない人々があります
それは、その人が自分の「思い」に捕らわれているからに他なりません

聖書の分かりにくいところは強いて解かないようにと記されていても
今まで多くの人々がそれを自己流に解釈し
それによって「神学」もたくさん生れました
それについては、各々が自分には神の啓示があると信じ
自分の「思い」を語っているにすぎないのですが
その中でも
「イエス・キリストが肉体をとってこられたこと」を否定する者は
神の愛も救いもすべてを否定する者ですから
わたしたちは、この「惑わしの教え」からは離れなくてはなりません
そこには愛はなく
せっかくここまで神の愛によって築かれてきた平安な生き方も
信頼すべきものを失って
不安な人生へと転落してしまうからです

このように
人々を惑わす者に注意すべきことは
他にも以下のように記されています

「さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する
あなたがたが学んだ教えにそむいて分裂を引き起し
つまづきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい
なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え
そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心をあざむく者どもだからである」
(ローマ人への手紙16章17-18節)


また、これらのことは
外部からやってくるばかりではなく
自分の心のうちに起こってくることがあります

都合よく過去の自分を忘れ、感謝を忘れていく時
わたしたちは、神の愛によって救われたことも忘れて
「自分の腹に仕え」、私利私欲に走り行くかもしれません

せっかく
「イエス・キリストが肉体をとってこられたこと」によって与えられた救いにあずかりながら
キリストの愛に習う信仰生活ではなく
自分の価値観で物事を考えて、信仰も自己流になってしまうと
自分の思いで行動し
感情に流されて失敗するでしょう

わたしたちが気をつけなくてはならないのは
「教会へ熱心に行くから恵まれる」のではなく
「教会で神の言葉を聞き、受け入れようとすることによって恵まれる」ということ
そして
神の語られる大切な戒めは、キリストの「愛のうちを歩くこと」です

自分の感情に流されて
カッとした勢いで行動すると失敗します
どうぞそこに神の愛を交えて判断し
冷静な対処ができますよう祈って行きましょう



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