今週のみことば


2月21日


「愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救いについて
あなたがたに書き送りたいと心から願っていたので
聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように
手紙をおくる必要を感じるに至った
そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて
わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え
唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである
彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されていたのである」
(ユダの手紙3-4節)

神が肉体をもってこられたイエスこそが救い主であり
イエスの名によるバプテスマを受けて救われることについて否定する人々が
聖徒の群れに入り込んでいることをユダは告げています

「偽り者とは、だれであるか
イエスのキリストであることを否定する者ではないか
父と御子とを否定する者は、反キリストである」
(ヨハネの第一の手紙2章22節)


ここに出てくる”イエスのキリストであることを否定する者”については
救いそのものを否定する人ばかりではなく
救いにあずかってクリスチャンとなりながら
自分の思いを第一とし、神を否定する人も含まれます

「しかし、民の間に、にせ預言者が起こったことがあるが
それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう
彼らは滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み
自分たちをあがなって下さった主を否定して
すみやかな滅亡を自分の身に招いている」
(ペテロの第二の手紙2章1節)


人生は自分の思い通りに進むものではありませんから
祈ってもきかれないとか、不満に思うかもしれません
そこには神のご計画があって
それがどのようになって行くのか知らないのに
面白くないと自暴自棄になったり、周りに当たり散らしたりするのは
神を信じていないからで
そこに「異端」の信仰を持ち込んでいるようなものです

「彼らは神を知っていると、口では言うが
行いではそれを否定している
彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって
いっさいの良いわざに関しては、失格者である」
(テトスへの手紙1章16節)


ユダの手紙6節には
自分のいるべきところから離れて堕落した天使たちについて記されていますが
心の中に自分の誇りが出てくると
その誇りはふくらんで、救われている人も汚し
やがてキリストを否定する者にもなっていくわけです

人間は小さなものであることを自覚して
どんなに恵まれた立場になったとしても
決して自分の栄光を帰することなく
それはすべて神によるものであると感謝していきましょう

更に9節には
「御使いのかしらのミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ合った時
相手をののしりさばくことをはあえてせず
ただ『主がおまえを戒めて下さるように』と言っただけであった」

と記されているように
わたしたちは無益な争いに関わらないようにし
感情を抑えて
すべてのことを神に任せていくことが大切です
ミカエルは天使長であっても神ではないという
自分の立場をわきまえていました

神がどのような方であり
救われるとはどういうことなのか
それに対して人間がいかに小さい者であるか
初めから教えられてきたことをしっかり自分のうちに保っておれば
自分の力で戦おうとはしないはずです

わたしたちが信じる神は
99匹の羊をおいて、1匹の羊を探して下さる愛の神
そして
人生は神の戦いで
わたしたちはただ従っていくのみです

「ヤハジエルは言った
『ユダの人々、エルサレムの住民、およびヨシャパテ王よ、聞きなさい
主はあなたがたにこう仰せられる
”この大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない
これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである”』」
(歴代志下20章15節)


アンモン、モアブ、セイル山の民が攻めてきた時
ヨシャパテ王は神に祈りました
この時ユダの軍勢は決して少なかったわけではありませんが
王は兵力よりも神の力を頼りとしていたので
預言者の言葉に従って行動しました
その時、敵は同士討ちをして互いに滅ぼしあい
ヨシャパテ王は戦うことなく勝利をおさめたのでした

この王の姿は
神にすべてをゆだねて歩むクリスチャンの模範です
いかに自分の力や考えがあろうとも
もしそれに頼るなら、勝手に自分の中に神を作ることになり
それでは救い主を否定するも同然なのです

神を知っていると言いながら
自分の歩みによって救い主が否定されるなど
あってはならないことです
救われていても、迷いは人の心にはいってきますから
聖書に教えてあることを心にとめて
自分の生活に生かしていくよう心がけていきましょう



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