今週のみことば
2月28日
「愛する者たちよ
わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい
彼らはあなたがたにこう言った
『終りの時に、あざける者たちがあらわれて
自分の不信心な欲のままに生活するであろう』
彼らは分派を作る者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである
しかし、愛する者たちよ
あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ
聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち
永遠のいのちを目あてとして
わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」
(ユダの手紙17-21節)
ここでは、不信心な者たちの歩みについて記されていますが
救われてクリスチャンとして歩んでいても
やがてその心の中に”あざける者たちがあらわれて
自分の不信心な欲のままに生活する”ように仕向けられ
ついには信仰から離れていくかもしれません
人間は弱いので
物事が上手く行けば自分の力を誇り
上手く行かない時には神に文句を言い
神のご計画を無視して、自分の思うままを生きようとするからです
しかし、洗礼と聖霊とによって救われた者は
信仰の上に自分の人生を築いて行くべきであることを聖書は教えており
そこに記された言葉を常に思い出しながら
日々の生活に生かしていかなくてはなりません
特に「救い」に関することは神ご自身によって語られたものです
それがどのように尊いものであるかについては
直接聞いた使徒たちから語られ
更に神の働きがそこにはあり
さまざまな奇跡や不思議なわざがあらわれると共に
各自に聖霊が与えられるることによって証明されたのです
「わたしたちは、こんなに尊い救いをなおざりにしては
どうして報いをのがれることができようか
この救いは、初め主によって語られたものであって
聞いた人々からわたしたちにあかしされ
さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより
また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである」
(ヘブル人への手紙2章3-4節)
ヘロデ王によって牢獄に捕えられていたバプテスマのヨハネは
イエスの行う奇跡の数々の報告を受けた時
弟子たちをイエスの元につかわして
イエスが救い主なのかどうかを確かめさせました
これに対するイエスの答えは以下の通りです
「答えて言われた
『行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい
盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ
死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている
わたしにつまづかない者は、さいわいである』」
(ルカによる福音書7章22-23節)
ここでは、”わたしが救い主”であるとは一言も語られていませんが
代わりに、数々の奇跡を通して悟りなさいと記されています
イエスに洗礼を施したヨハネですから
イエスこそ自分が語ってきた”来るべき救い主”であることはわかっていたはずですが
奇跡の数々を聞いてなお弟子たちに真相を確かめさせたのは
牢獄に捕らわれることで心が弱っていたからでしょう
わたしたちは今、神ご自身の姿を見ることもありませんから
イエスが救い主であり、その救いに自分があずかっているということは
自分になされた神の業(奇跡・不思議)を思い出すことで実感することができます
救われるということは
その時から神の愛のうちを歩むようにされたということであり
本当にそのような幸いの中に自分がいることは
色々な形でそれぞれに神の業が成ることで明らかになります
それらはすべて神の愛によって成されることですから
この神の愛のうちに自分の信仰を堅く守り
”自分の不信心な欲のままに生活する”ことになりませんよう
どんな試練の時にも
これまでどのように守られてきたのかを思い出し
”わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい”
との教えに立って、祈って進んでいきましょう
しかしながら、人は弱いので
神の愛のうちに生かされていながら、それがよくわかっていません
そのために試練が起こるたびに
心の中に、なぜ自分にこんな事が起こるのかとの「戦い」が起こります
この時
神の業を思い出し、神に希望を置いていける人は
その信仰によって自分を支え、戦いに勝利することができますが
サタンは人の心の弱いところを攻撃し、不安に陥れるので
バプテスマのヨハネでさえも心弱り
”わたしにつまづかない者は、さいわいである”
と言われています
わたしたちの人生は決して自分の思い通りではないので
それが「つまづきの材料」とならないように
神の愛のうちにある幸いを感謝しつつ
日々前進していきましょう
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