今週のみことば


3月7日


「ヨハネからアジアにある七つの教会へ
今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから
また、その御座の前にある七つの霊から
また、忠実な証人、死人の中から最初に生まれた者
地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから
恵みと平安とが、あなたがたにあるように
わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し
わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに
世々限りなく栄光と権力とがあるように、アーメン」
(ヨハネの黙示録1章4-6節)

ここに記されているのは
天地の創造主であり、人間の肉体をもって生れ
十字架にかかって死んだ後、よみがえり
その血によって人間を罪から解放して、神ご自身である聖霊を与え
神の国に入る身分としてくださった方
すなわち、すべて神=イエス・キリストの事です
ヨハネは神の命じるまま
アジアの七つの教会に対してそれぞれ書簡を送りました

ヨハネは自分に呼びかけた方の姿を見た時のことをこう記しています
「わたしは彼を見たとき、その足元に倒れて死人のようになった
すると、彼は右手をわたしの上において言った
『恐れるな、わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である
わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である
そして、死と黄泉とのかぎを持っている』」(17-18節)


ここには
神がどのような方であるのかが具体的に記されています
つまり、神はこの世の初めも終わりもすべて握っている方で
肉体をもって一度死んだ後もよみがえり
永遠に生き続けておられる方だということ

このことは
わたしたちにとっても
その人生は、初めから終わりまで、すべては神によって支配され
すべてのことをつかさどる権限を持つ神だからこそ
神を愛する者たちを救い
苦難から解放して下さるとの希望を与えられるものです

2章からは7つの教会に対する書簡が始まりますが
まずエペソの教会に対する書簡では、4節に
「しかし、あなたに対して責むべきことがある
あなたは初めの愛から離れてしまった」
と記されています

わたしたちは、はじめて神を知り
救われた時のことを今も覚えているでしょうか
教会には大きな問題を抱えた方が救いを求めてやってきます
当教会においても
これまで多くの人々が救われて
数々の奇跡によって喜びと平安を与えられてきました
しかし
どのくらいの人がそれをいつまでも覚えているのでしょう

洗礼と聖霊を受けて救われたクリスチャンでも
その後の人生に試練がなくなるわけではありません
さまざまな問題で心が折れそうな時も絶望せず
神を見上げて、神に希望を置いて進んでいく
こうして試練を通して神の助けを体験した時
その経験は財産となって信仰を支えます
つまり
神の試練はただの試練で終わるものではなく
どんなところに置かれても平安に生きることができるように
信仰の成長に役立つのです
誰も辛い体験などしたくはありませんが
そこで経験したことをその後の人生にどう生かしていくのか
ここが人生の分かれ道でもあります

人間は自分の弱いところばかりをみては嘆き
年をとるほど嘆きは増し
いよいよ自分のダメなところばかり見るようになりがちです
それでも、救われた者は
今の自分の状況がどうであれ
すべてのものの初めであり終りであり
すべての命をつかさどるところの
世々限りなく生きている神がついていて下さることに希望を置いて
その信仰により
心の中に平安な家を建築していくことができますように

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら
わたしはその中にはいって彼と食を共にし
彼もまたわたしと食を共にするであろう
勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう
それはちょうど、わたしが勝利を得て
わたしの父と共にその御座についたのと同様である
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」
(ヨハネの黙示録3章20-22節)


世の中のもの(お金や名誉)に富んでくると
神など必要ないかのように思う人も出てきますが
人間というものが実はとてもみじめで、何も分からない存在であることを
そういう人は知りません
だからこそ、すべてをつかさどる権威を持つ神を知り
救われて、本物が分かるようになるようになることが大切です

神は常にわたしたちが助けを求めるのを待っていて下さいますから
どんなところにあっても平安に生きる人生の勝利者となるべく
神の言葉に対して心の戸を開いていきましょう



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