今週のみことば
3月21日
「ウヅの地にヨブという名の人があった
そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった
彼に男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊7千頭、らくだ3千頭、牛5百くびき
雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、東の人々のうちで最も大いなる者であった
そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け
その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした
そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し
朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた
これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し
その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである
ヨブはいつもこのように行った」
(ヨブ記1章1‐5節)
東の国一番の富豪であるヨブは
正しい人で、神を恐れ、悪に遠ざかる誠実な人でした
当時はまだ十字架の救いがなく
人は罪を許されるために律法に従って「燔祭(はんさい)」をささげていましたが
ヨブは自分ばかりか子どもたちが心に神を呪ったかもしれないと心配し
全員の分の燔祭を、宴会のたびにささげていたのです
ここで、「父親」のポジションを神に置き換えると
神が人間(子ども)に対してどれほど配慮していて下さるのかが
教えられるのではないでしょうか
このように、ヨブは神から見ても
「地上に彼ほど正しく、神を恐れ、悪を避けて生きている者はいない」
と言われるほどの人でした
ところが、そんな誠実なヨブに対して
神はサタンとの話し合いで大きな試練を与えます
そのような試練が与えられれば
信仰熱心なヨブでもきっと神を呪うに違いないとサタンは言いましたが
ヨブは、財産や子ども、すべての所有物を一瞬で失ったにも関わらず
以下のように語っています
「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った
『わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう
主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな』
すべてこの事においてヨブは罪を犯さず
また神に向かって愚かなことを言わなかった」
(ヨブ記1章20‐22節)
人は与えられれば喜び、神をほめたたえますが
失った時も神をたたえるのは難しいことです
これは、神に対する絶対の信頼がないとできません
そもそもわたしたちにとって神とはどういう存在なのでしょうか
それを各々自分に問いかけてみた時
単に自分の願いをかなえてくれる都合の良い存在にすぎないなら
失う時には必ず神を恨むようになるでしょう
しかし
人間は誰もが裸で生れ
何も持たずに裸でこの世を去っていく・・
このことをどう理解し、受け入れているかが
クリスチャンとして誠実に潔く生きるポイントになります
自分の思いや計画とは違うことがなされても
嘆いたり絶望したりしないこと
それは、神のなされることにはみな意味があるのだと
希望をもって信じていくことこそ、本当の信仰だからです
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが
救いにあずかるわたしたちには、神の力である」
(コリント人への第一の手紙1章18節)
十字架にかかったイエスによる救いを受けた者は
信じない人にとっては、愚かと思われるようなことを信じて従っています
物事が上手く行かず絶望的な状況に置かれても
なお神の助けを信じるのは愚かに見えることでしょう
しかも自分の考えることとは違うように神が導くとなれば
それが幸いなことなのだと信じるには本当の信仰が必要です
「すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく
だれひとり自分のために死ぬ者はない
わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ
だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」
(ローマ人への手紙14章7‐8節)
わたしたちは自分の力で生きているのではなく
神によって生かされている
聖書のみことばは信じない人には愚かと思えても
従うことによってそこには本当に神の業が成されます
この世に生きる限りは、ずっと試練がつきものであることについて
問題をどのように受け入れていくかが重要な課題ですが
自分に問題が起こるのは許さないと腹を立てていると
信仰に立ち、進んで行くことはできなくなるでしょう
どんな時にも神のなさることを信頼し
救いの力を信じて
各々に与えられた問題と向き合う時
愛の神は決して信じる者が恥をかくようなことはしない
つまり、失望に終ることはないと
証をもって答えて下さいます
「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ヨブの姿は
神の言葉や神のなさる事を疑わず受け入れることの見本です
神にあって「失う」ということを不幸だと思わず
この事を通して何が起こるのかを
希望をもって見ていくことができますように
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