今週のみことば


4月4日


「この後、ヨブは口を開いて、自分の生まれた日をのろった」
(ヨブ記3章1節)

1〜2章において、自分の所有物すべてと、健康まで失ったヨブは
あらゆる災いに会いながらも
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう
主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」

「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも、うけるべきではないか」
と語り
「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった」
と記されていますが
3章に入るといきなり彼の嘆きが始まります

ヨブは「自分は生れてこなければよかったのに」と嘆き続け
「わたしは安らかではなく、またおだやかではない
わたしは休みを得ない、ただ悩みのみが来る」(26節)

と、どうしようもない心の状態を言い表しました

これが神から
”ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者はこの世にいない”
と賞賛されたヨブの、人間としての本当の姿です
言いかえれば、わたしたちすべての人間はこのような弱さを持っていて
自分の思いと違うことが起こると、それを受け入れることが難しく
その信仰もまた実に危いものだということでしょう

しかし、辛い出来事があったからといって
「生れてこなければよかった」と言っても何も解決するわけではなく
嘆き続けているところから立ち上っていかなければ
前へ進むことはできません
そして、その原動力になるのは
やはり神を信頼する信仰しかないのです

「そこに大路があり、その道は聖なる道ととなえらる
愚かなる者はそこに迷い入ることはない
そこには、ししはおらず
飢えた獣も、その道にのぼることはなく
その所でこれに会うことはない
ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む」
(イザヤ書35章8-9節)


イエスの名による救いを受けたクリスチャンは
神から与えられた道がどのようなところであっても
そこを天国とするように歩みます
神にあれば人生何事もなく、何もせずとも気楽に生きていけるわけではなく
天国へと続く道には各々に戦いがあって
そこを神を信じ、神に希望を置いて共に歩む時に
辛い出来事や苦労は無駄にならず
どこにいても神の守りのうちにあることがわかるようになるのです

ヨハネによる福音書5章には
どんな病気も癒される「ベテスダの池」のそばで奇跡を待つ
38年もの間病気に悩む人の事が記されています
イエスが彼に『治りたいのか』とたずねると
彼は、誰も自分を水に入れてくれないのだと愚痴を言いました
そんな彼にイエスは
『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』と語ります
この人はすぐに癒され、床を取りあげて歩いて行きました

「床」は、わたしたちにとって居心地のいいところですから
出ようとしなければ出ることはできません
どうせダメだと悲観し、愚痴を言い
絶望という病気の温床の中にとどまっていても何も解決しないのです

人は心が弱ると平安を失い
神を忘れて、事が悪くなることばかりを考えます
その時こそ、嘆いていないで神を思い出していきましょう
自分の人生がここまでどうであったかをふり返る時
神の恵みがあってこそ今があると思い出せば
そこには希望がわいてきます

「イエスは彼に言われた『わたしは道であり、真理であり、命である』」
(ヨハネによる福音書14章6節)


すべてのことをにぎっている神であるイエスの言葉に従って
どんな時にも与えられた道をそのまま歩もうとする時に
そこには必ず助けがあります

世の中には強がりを言う人もありますが
人は神の助けなしに自分の力で平安に生きることはできません
どんなにお金があっても社会的な地位を持っていても
人の命(生き様)は自分でコントロールできないからです

どんな所に置かれても幸いな生き方ができるように
神に対して不信を持たず
与えられた試練を神と共に乗り越えて
いよいよその信仰に確信を持っていきましょう



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