今週のみことば


5月23日


「あなたは神の深い事をきわめることができるか
全能者の限界をきわめることができるか」
(ヨブ記11章7節)

ここでは3人目の友人ゾパルが
”神とはどのような方であるか”について持論を語ります

彼もまた、2人の友人たちと同様に
自分は正しいと主張するヨブをいさめ
彼が神の前に何か罪を犯したのだと決めつけていました
「あなたは神の深い事をきわめることができるか」
と、ヨブに語りつつも
ゾパルも神がどのような方であるかについては
自己流の解釈をしていたからです

では、実際には神とはどのような方なのでしょうか

「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか
だれが、神の定めをきわめ尽くし、神の道を理解し尽くせよう
『いったいだれが主の心を知っていたであろうか
だれが主の相談相手であっただろうか
だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか』」
(ローマ人への手紙11章33-35節)


このみことばは最後に
”すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている”
と、しめくくられているように
神のご計画というものは人間の想像を大きく越えていて
誰も神の心を知るものはないにもかかわらず
わたしたちはヨブや3人の友人たちのように
勝手に神の心を自己流に判断しがちです

そのため、悪いことが起きれば絶望し
その先にどのようなご計画があるかを考えることも
希望をもって待つこともせず
神さまなんていないのではないか?との疑問まで持つようになるのです

ヨブは元々裕福で、罪の許しをこうための捧げ物も十分できる境遇にありました
こうして彼はずっと律法を守る信仰を続けていれば大丈夫だと信じていたので
予想に反したことが起こると絶望してしまいました
当初、口では立派な事も言いましたが
心の中では納得がいかないので、やがて絶望の言葉を発します

ヨブが裕福であったのは、神によって装われていたからで
彼がすべてのことにおいて祝されていたのは
自分が律法を守っているからというわけではなかったのですが
律法中心の信仰をしていると、そこで心から謙遜になることができず
あれだけ頑張ってきたのに納得がいかないと思うようになるのです

しかし
ヨシュア記6章に記された「エリコの城壁」が崩れる記述を読むと
そこには人間には不可解な神の命令があったことが分かります
つまり、神の箱をかかえて城壁の周りを毎日一回まわり
7日目だけは7回まわって最後に鬨(とき)の声を上げるのですが
イスラエルの民はその命令に従った時
難攻不落のエリコは崩れ落ちたのでした

何のためにこんなことをしなければならなのか?
わたしはどうしてこんな目に会うのか?
人生には、自分の計画とは違うことがしばしば起こり
そのたびになぜ?と思うでしょう
その時、わたしたちは
自分の計画と違うから神はいないとか
あるいは自分が律法を完全に守れないからバチが当たったとか
神のなさることに対して勝手な解釈をしてはならないのです

エリコの城壁の周りをただ回るだけで何もしない時間は
いかにもムダな時間を費やしているように思えますが
それでも、神のなさることに無駄はなく
どんな堅固な城壁でも神は簡単に崩してしまうことを
そこで従った人々は見ることができるのです
これが
”神が置いて下さった所(環境)で戦いに勝利する”という
クリスチャンの生き方であり
どんな時にも、神にできないことはないと信じて
自分の頑張りではなく、神による救いを信じて進んでいくことを
神は求めておられるのです

「神のなされることは皆その時にかなって美しい」
(伝道の書3章11節)


わたしたちは神の手の内にあって、許しのうちに成長させられています
その時には、神の救いを見るためにさまざまな所を通されますが
すべてのものは神から与えられていることを知れば人は謙遜になり
人生は神の独壇場であることを受け入れることで
想像をはるかに越えた神のご計画を見ることができるでしょう

その神のご計画は、すべてがちょうどよく完璧です
大切なのはわたしたちがそれをどのように受け止めていくかということ
納得がいかないと思うようなことがあっても
そこで自分の運命を呪うようなことはせず
自分のするべきことをして、前を向いて進んでいきましょう



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